TOCの窓            NO139 驚くべき教育格差ー中学受験の意味するものー      その2       

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驚くべき教育格差ー中学受験の意味するものー      その2

前回、社会の上昇システムが実相からかけ離れて抽象的であるため、自分たちにあった人生選択とは何かをよく考えさせないという問題点を挙げたが、今回はそれについて考えていく。

今私の手元に東京大学や国立大学医学部に多数の合格者を出す都内の私立中高一貫校の入試問題がある。たとえば女子中学の最上位校である桜蔭中学の国語の問題を見てみよう。2006年の1番の現代文の問題は、平均よりも上位の国立大学二次試験で出題された問題と同じである。同一筆者(高階秀爾)同一著書(『日本美術を見る眼』)で、過去複数の大学が出題している文章である。しかも設問のレベルも、制限時間に対する制約も桜蔭中学のほうが厳しい。

このような問題を小学生に解かせるには、小学校の4年生くらいから塾で特殊な教育をしなければならない。こういった進学塾にかかる費用は3年間で300~400万以上だと言われている。

ここで私が指摘したいのは早期教育の過激さでもなく、無茶な問題を12歳のこどもに課す残虐ぶりでもない(このことが人間の精神に及ぼす影響については改めて述べたい)。

ただ、12歳の段階で、中学受験をする層としない層との間で、絶望的なほどの学力格差が広がっているという事実を指摘したいだけである。

都市部の早期教育は、それにかかる費用の高額化と歩調を合わせて、バベルの塔のように学力を高く伸ばしているのである。中学受験対策に膨大な時間とエネルギーを費やしている当の親や子どもたちは、「ゆとり教育」や「学力低下」はどこの世界の話だと思っているにちがいない。

言うまでもなく、現代の日本では、経済的にゆとりのある親は、最終帰着点である大学入試にいかに有利に働くか、ということを主軸にして子どもを育てる。学習能力や学習成果の価値が教育市場を通じて決まるだけでなく、資格市場や労働市場とも結びつくようになった社会の酷薄さを本能的に察知しているからである。

公立を見捨て、私立中学ブームを起こし、低学年低年齢からの進学塾通いを一般化させてきたのはまさにこの親たちである。だがここには、こどもが将来何を学ぶのか、という視点はない

この時期の子どもたちは、自らの人生に責任を負うことのできる人格の形成期であるにもかかわらず、その機会自体が親の選択によって奪われる

高校生の塾通いならば、ある程度自分の進路や志向がはっきりとしているが、中学受験のための低年齢化した塾では、同質集団の中で点数、偏差値が乱れ飛ぶ。あるのは点数競争だけである。

つまり中学受験をする子ども達とその親は、勉強とは競争のためのものだと完全に思い込まされてしまう

(今では地方の中核都市でも、中学受験対策の塾がある。「勉強させます!しごきます!」「折れたチョークが飛び散ります!さあ、かかってきなさい!」というキャッチフレーズでテレビCMまで流しているのを旅行先のホテルのTVで見たことがある。いったい、いつの時代の発想であろうか。何のことはない、都市部の過熱する中学受験の廉価版のコピーであり、レベルの低い経営コンサルタントの戦略がみえみえの代物である)。

こうして競争に勝ち抜き、中学受験に合格した後、子どもたちの学習の質を保証するのは、トップレベルの教授法を持った教師たちであり、6年間で平均600~700万円の学費(それ以外にも相当な費用が必要となる)を払える親の経済力と学歴メリットによる情報収集能力である(ここが地方の物まね中高一貫校との決定的な違いである)

そして、こういった学校の子どもたちのほとんどは東大や国立大学医学部を受験し、合格する。つまり、東大や国立大学医学部、京都大学をはじめとする難関大学へのパスポートは12歳の段階でほぼ配り終えられているのである。残りのパスポートを地方の高校生が手に入れようとすれば、各地の公立トップ校で上位3%に入るしかない

私が塾を始めた1980年代は、学力格差がそれほど拡大しておらず、逆転の余地もあったが、90年代を通じて早期教育が貫徹されるにつれて、学力競争は「負け」が早くから確定されるようになった。

そして一度負けが確定すると、勉強は序列と格付けのためだけに機能しているので、子どもたちの多くは早々とこの競争から撤退していく

さらに、少子化によって競争的な状況が緩和されると、まだ競争が残存している上位層でのみ局地戦が繰り広げられ、中下位層では続々と競争の旗が降ろされていく

勉強=競争である以上、競争のないところから学びは次々と消失していく。子どもたちが、勉強とは順位を競う競争だと認識していれば、競争から落ちた瞬間に勉強から離脱するのは当然である。

結局、日本という国は、勉強単に受験の成果とだけ結び付けてしまったために、受験をしないなら勉強しないという壮大な無気力空間を構築してしまったのである

思えば、日本の戦後教育は、学ぶことそのものを求めてきたのではなく、高度経済成長と歩調を合わせるようにして、競争することだけを求めてきた

競争の最終帰着点である大学入試はこどもの学力そのものに関心を払ったことはなく単にこどもを序列化してきたに過ぎない入試の得点で上位者から合格させてきただけである

大学で学ぶためには最低限どれくらいの「学力」が必要なのかということに関して、日本には絶対的な評価基準がないのである。

その結果、日本では、中学校程度の基礎的な知識すら持っていなくても大卒学歴は得られるようになり、歯止めの利かない学力低下が進行するようになったのである

ヨーロッパの多くの国では、大学入学の選抜基準となる資格認定試験があるのと好対照をなしている。

70~80年代的風景での受験勉強のように学力が一元的なモノサシで示され、それに到達する手段がわかりやすかった時代に比べて、現代では「学習能力そのものを高める学習」は目標も評価基準もあいまいで多元的になり、そこに到達する方法もわかりにくい。その3以降ではそれらについて述べていこうと思う。

じゃあ、また。

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