TOCの質問箱 NO.0「TOC徳塾 森北自然教室・小学生個別授業って何?」
質問箱NO.0 ●[TOC徳塾ポートアイランド教室・本山教室から移転しました]
昭和63年からずっと続けて、ポートアイランドと本山で教室を開いてきましたが、“考える力”の乏しい子たちがどんどん増えてきています。今では少子化とともに、塾としては小学生高学年では一斉授業などできない状態です。かつて、「落ちこぼれ」という言葉をよく聞きましたが、最近あまり耳にしなくなったのは、それが無くなったからではなくて、むしろそれが蔓延し常態化してきたからなのです。中学生のどの学年も、テストで10点代の子などワンサカいます。方や、進学塾で異常に知識だけを肥大化させた子もいます。そもそも[TOC徳塾森北自然教室]は、このような状態を前にして、私が教育の現場で持ち続けた「根本的な学力差がつく小学生時代に、真に取り組むべきことは何だろう」という問いから、「イメージの操作=思考力」を鍛える“イメージ思考問題”を解く、という答えを得た結果、生まれた教室です。そして、ポートアイランド教室の一斉授業小学生部を閉鎖したのです。ところが、その矢先に、ご両親共々来室されて、本山校や森北教室のイメージ思考の授業をメインに、ここでも開いて欲しいと強く希望された結果、十数年前に森北教室の形態での個別指導を始めることになりました。年長児や小学生低学年では、そのまま入って行きやすいのですが、高学年になってしまうと、その子のそれまでの経緯から矯正期間が長くなる子も出てきます。そのため、高学年では「考える力」のチェックテストをした上で、納得していただいての入会という形をとっています。現在、始めている子もいるのと、少人数制なので一緒に学習を進めていけなくては双方とも困るからです。
算数・数学は、得意と苦手がはっきり分かれやすい科目です。さらに学年が上がるほどに、さしたる努力をせずとも応用問題までスラスラ解ける生徒と、繰り返し演習を重ねても一定レベル以上の問題になると手も足も出なくなる生徒と極端に分かれていきます。同じように教えても、吸収力に大きな個人差があるのはなぜでしょうか。たくさんの子どもたちを長年にわたって観察し続けた結果、私はこの差を12歳までの “学習面での土台作り“の差だと考えています。そしてこの土台とは、よく言われる“読み書き計算”ではなく、“考える力”であると確信しています。
[TOC徳塾森北自然教室ー小学生個別指導教室]は、算数を教える教室ではなく、算数を使って“考える力”をつける教室です。ただの「できる」先生ではなく、「分かっている」先生として指導するつもりです。先取り学習や徹底反復や丸暗記はしません。以下の指導方針をぶらさずに指導目標を達成します。
「学習を強制しない」自ら学びたくなる教材と環境を準備して、学習意欲を引き出す努力をする。考える楽しさ・学ぶ楽しさを伝える。
「目先の結果を求めない」ゆっくりじっくりていねいに、一生の財産になる力(とことん考え抜く力)をつける指導をする。
「考える方法を体得させる」ことで「考える楽しさを体感させる」それによって「とことん考える力をつける」
小学生時代に土台を強く大きくしっかり作ること、そしてそこに積み上げていく楽しさを体感させることに成功すれば、あとは“子供たちが壮大な建築物を自主的に作っていくのを、親は信頼して見守るだけ”という理想を実現できるはずです。
生活様式が日常的に工夫を要求していた時代と違って、子どもが自分で工夫する環境を奪われている現代は、考える力が自然には養成されにくくなっています。ですから「受験は先の話だから塾なんてまだ考えてなかった・・・」という方も、ぜひ検討していただきたいと思います。
「そうは言っても、遊ぶ時間を奪うようでかわいそうな気がする」という方へ⇒遊び以上に楽しく有意義な学習とは・・・詳細は「TOCの質問箱NO2」へ
「早い時期にやらせすぎるのも、あまり良くないって聞いたけど・・・」という方へ⇒すくすく伸び続ける子に育てるポイントとは・・・⇒詳細は「TOCの質問箱NO3」へ
他、ご質問やご要望などございましたら、些細なことでも構いませんのでお問い合わせ下さい。
[TOC徳塾森北自然教室ー小学生個別指導教室]は、少人数制(同一時間の定員が5名)の個別指導教室ですから、直接ご要望をお伺いできれば、保護者の方の考えを反映させた指導が可能です。
私にも3人の子どもがいます。3人とも私の考えを実践して、進学塾に頼らず国立のドクターの道に進みました。幼児期からの拙い子育ての経験も、お伝えできると思います。これからも、保護者の方との二人三脚で、お子様の才能が開花していく際の感動を共有させていただけたら、これほど嬉しいことはございません。
どうぞよろしくご検討お願いいたします。
TOCの窓 2023年 教室の私にできること NO.137
2023年 教室の私にできること
子供たちの置かれている環境も、もって生まれた能力も千差万別です。自分がこの子を何とかしようと善意で働きかけてもうまくいくとは限りません。 その中でTOCの塾教師としてできることは、それほど多くありません。私は、良い結果も悪い結果もすべて子供たちに返してあげること、それで子供たちが納得することが何よりも大事だと考えています。
ずっと以前、第一志望校に合格できた子だけでなく、すべてのこどもたちの進学結果を掲示していた時期がありました。それぞれの努力の成果として一緒に表現したいと思っていたからです。でもいろんな思いを持って生きている子もいる中、了解を得ていたのですが、あえて公表するものではなかったかなと今は思っています。 とはいえ現在の塾のチラシで、はやりの「良い結果(誰にとって?)」だけを塾の手柄にして大々的に宣伝する気には全くなれません。 この時期、テレビコマーシャルをはじめとして塾は手を変え品を変え、リテラシーの低い保護者に訴えかけます。資力の多くを「絶対成績が上がる!」だの「順位急上昇!」「成績保証!」だのと大書したチラシの作成に集中します。「絶対成績を上げてそれを保証するための授業」とは、大脳を通過しない脊髄反射的なオートマチックな機械に子供たちを仕上げることなのですが、それがもたらす悪影響には想像力が及びません。中学・高校・大学と年齢を上げるほどにそれは表れてくるのです。しかし、「とりあえず」希望校に合格させるためには、きれいごとは言っておられないというのが親や子供たちの本音なのでしょう。 今コロナによって、これまでずっと続いてきた受験中心の教育の基底部が大きくズレ始めています。それが雪崩を打って崩壊する前に、最後の荒稼ぎに入っているのが塾業界です。必然的に、下品この上ない言葉のオンパレードになるわけです。
最近、受験に巻き込まれやすい優等生ほど、深く物事を考えることができないという逆説を痛感しています。この傾向がここ数年加速していると感じます。 しかし一方では、高偏差値を取ってみたところでそれは単なる囲い込まれた世界での抽象的なゲームでしかなく、現実社会では通用しないということをかなり多くの親が理解するようになってきたとも思います。
わたしは、こどもを塾や学校にまかせきりにするのではなく、適性や能力を見極めた上で、こどものやりたいこと好きなことの延長線上に将来の職業を構想できるようにしてやることが親の責任だと思っています。その意味では、問われているのはまさに親自身の社会とのかかわり方の質であり、家庭の精神的な豊かさ・文化度の問題だと言えます。 こどもたちの可能性を社会に向かって開こうとせずに、かえって既存の「教育」という「純粋培養」空間の中に囲い込む旧来の発想を、まず親が疑ってかかることが必要だと思います。そうやって開かれた可能性のなかでの、こどもの精神的な成長こそが、柔軟で将来性のある学力を形成すると考えています。
今わたしたちは従来からの教育の価値観が揺らぐほどの世の中の大きな混乱の渦中にいますが、溺れ死なないための処方箋は単純です。 まず「自分自身が懸命に学び、等身大で生きること」です。そして「子どもとした約束は誠実に必ず守る」ことです。わたしたちにできることは、この二つだけです。
これで世の中は変わるのです。
じゃあ、また
TOC徳塾
TOCの風 土に還るまで NO.10
先日、義母がなくなった。10年前に義父が亡くなり一人暮らしになるのが心配で同居を始めた。一人娘である妻を育てた穏やかで落ち着いたがんばり屋の人であった。1年間の闘病の末の、緩やかに安らかに眠るような最期であった。
私は父を15の時に亡くし、30代で母も亡くした。私自身まだ若く当時それらの葬式に直面していたのだが、それ以降もその意味についてあまり深く考えたことがなかった。今回この年になって初めて、葬式ということを改めて考えた。
今まで、葬儀というのは生きている人間のためにやるものだ、とずっと思っていた。
わたしがそれまで持っていた「生きている人間のための葬儀」という見方が、あくまでも人間を「意識ある存在」としてとらえる見方だったのだ、ということである。
意識がなくなった身体は、もはや「亡骸(なきがら)」であって、その人ではない。
だからこそ、葬儀はその「なきがら」に別れを告げるための、生きている人びとのための儀式である、というふうに考えていたのだ。
しかし、どうして「なきがら(亡き殻)」といえるのだろう?
もし、人間が意識だけの存在ではなく身体を含めてその人であるのだとしたら、その人の意識がなくなった身体も、未だその人であり続けるはずではないか。棺桶の中に眠る義母を見てそう思った。
埋葬され、土に還るまでは、「その人」は居つづけるのではないか。
いまのわたしたちの社会は、意識がなくなった「その人」は、そのまま土に還ることができるようにはなっていない。
だからこそ、生きている人間が、その代わりに、その人の身体を土に還さなければならない。
お葬式というのは、そのためにあるのではないのだろうか。
これまで、何度か葬儀に参列してきた。
高校時代のある先生のお葬式では、さまざまな年代の、その先生の教え子が一堂に会し、久しぶりに顔を合わせた人たちの輪があちこちにできて話がはずんでいた。みんな涙を流しながら、一方で、昔と変わらない、あるいはすっかり変わってしまった旧友たちに再会して、みんなが笑っていた。
祖父の式でも、滅多に顔を合わさない親戚が、日本中から集まってきたものだった。
そんなとき、ひとりの人の死はさまざまな人を結びつけるのだ、と思ったものだ。
そんな経験があったから、よけいに、葬儀は生きている人のためにある、と考えるようになったのだろう。
だけど、それだけではないのかもしれない。
草も木も、虫も獣も人間も、生きとし生けるものは死ねばすべて、そのものとして終わって土に還ってこそ、原初にもどっていけるのだろう。
血縁のない義理の私が、今回深く葬儀にかかわって思ったことは「土に還す」役目を誰かがしなければならないなら、そしてそれが今の自分にできるのであれば、その役目を自分も担おうと強く感じたことだった。
おそらく、葬儀は残された人のためにのみあるのではない。
ひとが土に還るまでが「人間」であるのなら、残された人が土に還してやらなければならないのだ。
そのために、わたしたちは葬儀を行い、人を埋葬するのだろう。
じゃあ、また。
TOC徳塾
TOCの窓 NO.136 やる気は作業興奮の原理で
やる気を持たせるために、ピグマリオン効果とか「褒めて伸ばす教育」が叫ばれて久しい。ただ、女性セブンの調査結果(散髪屋さんで読みました( ´∀` ))によれば「努力の大切さを伝える」「最後までやり抜くことの大切さを伝える」という項目は9割以上の保護者が実践するものの、子どもの学力に大きな差はみられなかったそうだ。一方、「テレビ・ビデオ・DVDを見たり、聞いたりする時間などのルールを決めている」「テレビゲームやスマホのゲームをする時間を限定している」という家庭ほど、子どもの学力が高くなる傾向が顕著だったという。
「小学生には時間の使い方を教えることが有効」と指摘する教師は多い。ただ、「最後までやり抜く」「努力は大切」などの抽象的な道徳論は、自我が育っておらず判断力が未熟な小学生や中学生低学年が聞いても具体的に何をしたらよいのか分かりにくいため、成果につながりにくい。つまり、より具体的な時間の使い方を教えてそれをしっかりと習慣づけていくことが大切ということなのだが、そのために効果的なのは ‟声掛け” よりも『時間の管理』だ。
脳科学の視点から見ると、人間の ‟やる気″ はいくら他人から声をかけられたとしても、自分で行動を起こさなければ絶対に出てこないという。無理やりにでも手を動かし始めると、脳内から神経伝達物質のドーパミンやアセチルコリンが分泌されて,徐々に気持ちが乗ってくる。おっくうだった掃除でもやり始めると熱中して、止まらなくなることを心理学用語で『作業興奮』というが、それと同じ原理だ。
だからスマホやゲームや外遊びも、制限時間内で終わらせ門限を決める等のルールを作り、後は鉛筆を握らせて机に向かわせることが重要だ。最初は嫌々でも次第に熱中してくるはずで、これを定着させていく。自由放任教育で失敗するとしたら原因は案外こんなところにあり、小学校低学年で身につけておくべき姿勢だった。だが気が付いた時から修正は十分していける。まずやってみる。座って読んで絵をかいて手を動かし始める。
実は、春以降けっこう忙しく伸ばし伸ばしになっていたこの「TOCの窓」も、まずPCに向かって短いものから書き始めたらすぐ終わってしまった。
やっぱり『作業興奮』ですね(笑)。
じゃあ、また。
TOC徳塾
ニュースレター NO.32 令和4年 春の通信
宝塚から通塾しているS・Hさんが今回武庫川女子大付属中学校に合格しました。おめでとうございます。6年生からの1年間はどんぐり授業に加えて週1回2時間の追加授業だけで計算・漢字確認と理科のワーク1冊と過去問演習をしました。入会時からコツコツ努力を続けて考える力を飛躍させ、普段通りの力で240名合格者のうち上位30名のサイエンスクラスに入学しました。進学塾の風潮にあおられず学校も休まず自分を見つめて、しっかりやり続けた結果です。お母さんともども、TOCを信じてよく頑張ってくれました。ありがとうございます。TOCはほんの少しお手伝いさせていただいただけです。自信をもって進んでください。これからも微力ながら応援させていただきます。
さて、今年度も小学生・中学生クラスの受付を開始しました。各時間帯クラスの定員は6名です。定員になり次第締め切りとなりますので、ご了承下さい。尚、入塾をご希望の方は、ブログ『塾長の講義とつぶやき』の「TOCの窓NO.113 20年前と変わらない思い・TOCの質問箱等」をお読み下さい。低学年からの子供さんにきちんとした学力をつけるためには、保護者様と価値観を共有することが必要です。当塾はテレビコマーシャル・新聞広告等で不特定多数の生徒を集める多店舗展開のチェーン塾とは一線を画しています。入塾に際しましては15分ほどの面談がございます。
□幼稚園年長さん・小学新1年生から受付をします。公立中学新1・2・3年生は空席がございます。中学3年生の受付期間は3月末日までとなっております。当塾は知的な作業全般に向き合う姿勢を具体的に教え、考える力をつけることでこれからの社会を生き抜ける生徒を育てることを方針としています。その場しのぎの点数を取らせる塾ではありませんので、その点ご了承下さい。
保護者の皆様へ
入塾の申し込みは、曜日・時間帯によって数日で締め切りになる場合もありますが、来年度になっても空席がある場合もございます。私の方で何とかできる問題ではありませんので、その点ご了承下さい。
お問い合わせはこちら >TEL 078-441-5157 携帯 070-6680-5157
■保護者の皆様にお願いがあります。当塾では、文部科学省のカリキュラムに縛られることなく、自由に深く広く学習することを目標にしています。生徒さんは塾で毎週1時間~2時間を過ごすことになりますが、その時間をどうか私に任せていただきたいのです。使う教材も、ありきたりのものではなく、どんぐり教材をはじめとして私が選んだ取り組みがいのあるものにします。詳細はブログに譲ります。
まず私ができることとできないことをはっきりさせておきたいと思います。
小学校低学年からTOCのイメージ学習を続けられている生徒さんは、引き続き中学生となられても高校受験を意識した中学生の各科目勉強方法を加味して、もちろん指導していけます。ただし、詰込み主義の一般の進学塾のような指導は行いません。これまでのどんぐりイメージ思考で培った考える力を伸ばしていってほしいからです。受験に特化した学習は中3からで十分です。親の立場としてあせってくる気持ちは理解できますが,一番大切なのは本人のやる気です。そこを考えて家庭で「気」を育てることに専念しましょう。
また原則として中学受験のための指導は行いませんが、考える力が育ってくるにつれて特色ある私学進学の希望が興ってくるのも実際で、その場合は前述のS・Hさんのように考える力を伸ばすことを重視したうえで対応しています。普段通りの学習の上に必要悪としての最低限の受験指導で乗り切ります。そのうえで入学後も、身につけた考える力を使って私学独自の高速の学習進度にも対応した指導を行っていきます。
一方TOCのイメージ学習またはどんぐり学習の経験なく中学生となって入塾を希望される生徒さんの場合は、各学校で上位40パーセント(一学年200名として80番)以内に入っている生徒さんを対象にさせていただきます。このレベルの生徒さんであれば、学力を伸ばすことができます。もちろんこれは目安にすぎません。本人にやる気さえあれば受け入れ、しっかり指導していきます。本人にやりたいという気があれば必ず伸びます。
基礎的な学習態度にこだわる理由は、ここ10年余りの間に、学力差が挽回不可能なほどに固定化してきたことが挙げられます。以前は平均的な学力を持った生徒に照準を合わせて授業をすれば、成績上位層の生徒の学力も伸ばせましたし、勉強が苦手な生徒の成績も上げることができました。ところが、今は学力における中間層(平均的な学力を持った生徒)が消滅しつつあります。二極分化が進み、照準を合わせるべき生徒がいなくなったのです。30年以上にわたり塾教師をやってきましたが、これは悲しむべきことです。さらに、『TOCの質問箱NO.0小学生・年長児の個別指導って何?』に書いた状況が追い討ちをかけています。こういった状況の中で塾を続ける以上、何ができるかを考えました。TOC徳塾は個人塾です。できることは限られています。その結果、向学心にあふれ、より高い学力を身につけたいと考えている生徒さんを、さらなる高みへと引き上げることならできそうだとの結論に至り、考える力をつける個別指導塾の形態をとっています。以前のような一斉指導の形態はとりません。なにとぞご了承下さい。
■当塾は、生徒の皆さんに確かな学力をつけることを第一の目標にしています。授業に全く集中できないお子さんに躾をする場所ではありません。対価を払えば学力という商品を買えるはずだといった安易な消費者発想では、決して学力はつきません。学力をコンビニの棚に陳列している商品のように考える発想は、一筋縄では身につかない学力というものが、こどもたちの内面に大きく依存している点を見落としています。その学年にふさわしい内面を形成するのは、家庭の責任です。この点に関して、『ある体験授業の申込』と題してブログ中の『TOCの風NO.3』に私の考えを書きました。心ある保護者の皆様の参考になると思いますので、読んでいただけたら幸いです。なお、入塾は先着順です。入会テストは行っていませんので、入塾を希望される方は、早めにお問い合わせ下さい。
■私たちのこれまでのライフスタイルは、人が等身大で人間らしく生きるために必要なレベルを超えて、様々な情報や経済的利益を追い求めるものでした。グローバル化する熾烈な競争の中で翻弄され、自分を見失い、精神的に追い詰められるまでになっていました。いわば文明の飽和点・臨界点を超えていたと思います。
__これからの時代、私たちは生活と知の新しい座標軸をどこに見出せばよいのでしょうか。意図的にコントロールされた情報の中に見出すべきか。お金さえ持っていれば一人前の人間として扱われる消費社会の中に見出すべきか。拡大・成長の時代は、市場経済の論理を最上位に置き、地域の風土的多様性や文化的・歴史的な価値は省みられませんでした。しかし、私たちは現在、人類史の中での大きな構造変化に直面しています。すべての人が同じタイムテーブルの上で競争させられるのではなく、一人一人が固有の創造性を発揮する文化的創造の時代に遭遇しているのです。コロナ禍の今、が市場原理を信奉する多店舗展開の教育産業は、役目を終えようとしています。そのことをはっきりとアナウンスするべきです。私は、時間の蓄積を体感できる場、流行に左右されない確かな生活の実感をつかめる場として、自然に囲まれた里山に可能性を見出しています。四季折々の自然とゆったりとした時間の流れの中で、まず生活と知の基盤を立ち上げる。家族や地域といった極小の宇宙から世界へとつながる通路を、時間をかけてゆっくり見出せるのが自然に囲まれた世界だと感じています。TOC徳塾は一貫して、流行のイデオロギーから距離を置き、いつの時代にも通用する本物の学力をつけることを目標としてきました。そして、あえて主流にならないことで30数年間続いてきた私塾です。入塾に際して、面倒な手続きはありません。一緒に勉強してみたいという人を募集します。詳細は、直接塾に来られるか電話またはメールでお気軽にお問い合わせください。
■ 私は知的能力に基づく序列を、人間生活の一定の範囲内で、避けがたいものとして肯定します。肯定しなければ、ある問題をめぐって認識の優劣を競うこともできなければ、ある知的な仕事を他よりもすぐれたものと判断することすらできません。人間の宿命的ともいえる差異を観念的に否定してみたところで、評論家的な無責任さと、お決まりのヒューマニスティックな人間観にたどり着くだけです。どんな階層のどんな境遇の人であろうと、時には傷を負い挫折しながらも人はそれぞれの強いられた条件の中で闘っています。そして自分にとっての生の意味をつかみとっていけるような意志と断念とが背中合わせになった生きる知恵と復元力をもっているというのが、人生や社会を見て30年以上にわたり塾教師をやってきた私の基本的な人間理解です。
学力に関して言えば、子どもが一人一人の自発性で知っていくべき道程を、問いが生まれる前に答えを与えることで商業主義の精緻なシステムが肩代わりしているという現状を、自覚しなければ学力低下に歯止めをかけることは困難です。喜びをもって生きるという人生のなかには、能率性効率性を追い求め無駄を省くだけというわけにはいかないことがあります。
TOC徳塾は私(高畑泰志)が個人で主宰する塾であり、全国チェーンのプリント学習塾でもなければ、欠陥が非常に多い予備校講師の授業を配信するレンタルショップでもありません。生徒の迷いと焦燥に向き合い、試行錯誤と長い逡巡の過程に寄り添うことで生徒が知的に自立できるように支援する塾です。
受験は、こどもたちの将来にわたる学習観・人生観を形成する上で大きな影響力を持っています。受験を、合格に有利な知識を効率的に習得する情報戦だと考えるか、それとも失敗や試行錯誤を通して自らの限界と可能性を知り自立するための機会と考えるかで、その後の人生が大きく異なってきます。
前者は、何よりも効率を重んじるため、「勉強は面白くなくて当然。意味をいちいち考えたいとも思わない。勉強はやった者が勝ち、やらなかった者が負ける作業だから、やりやすいほうが楽だ」と考えるようになりがちです。学習する価値があるのはテストに出るところで、出ないことを学習するのは時間の無駄だという効率主義万能の考えをもったまま、大学生や社会人になる傾向があります。しかし、肝心な学習の動機付けを外部の第三者にゆだねているため、成績が思うように伸びないと、それを他人のせいにして突然勉強をやめてしまう可能性があります。
一方、後者はイメージを思い描いたり、すでに知っていることとの関連を考えたりするので一見非能率のように見えます。しかし、疑問を解決するためにどのレベルの理解力が必要なのか試行錯誤しながら、「自分の判断」を基準に学習を進めるので、学習範囲が広がり、面白さが解ってきます。楽しく勉強しているので、人に教えるのも上手です。結果よりも、考えている過程そのものを楽しめるかに関心があるように思います。
現在では、成績優秀者も、よく見るとこの二つのタイプに分けられます。TOC徳塾では、受験を自立への契機だととらえ、こどもたちが見かけ上優秀者であるよりも、時間がかかっても確実に知識が蓄積され実力がつくように、後者の観点からの指導を30年間一貫して行ってきました。そのための最低条件が個人塾のスタイルを守るということであり、分教室を作らないことだと今では考えています。
■TOC徳塾は単なる席次争い点数争いではない、より汎用性のある知識・学力の形成を目指しています。塾の選択を時間と月謝のみで判断するようなご家庭のお子様はお引き受けできません。部活で時間をとられ、規則正しく通ってこられない生徒さんも同様です。入塾に際しましては、以上のことを御理解して頂くようお願い申し上げます。
尚、当塾は、テレビコマーシャル・新聞広告等を打ったり、合格者数をあたかも教育力の成果のごとく宣伝して、不特定多数の生徒さんを集めることを目的とした塾ではありません。それでも、東大・京大や阪大・神大等の国立大学に合格する生徒もいますし、今や私学に独占されている感のある国立大学の医歯学部へも数名が合格・進学しています。私個人としては世間が評価するほどの高校とは思いませんが、地元の神戸・御影・長田高校の合格者も100名を超え、合格率は98%です。私は少しの指導と生徒からの質問に答え、学習に取り組む姿勢をアドバイスしているだけです。ただ、授業の中身に科学的方法論・学問的知見は取り入れています。
どうぞ気軽にお問い合わせ下さい。
お問い合わせはこちら >> TEL 078-441-5157 携帯 070-6680-5157
「塾長の講義とつぶやき」ブログ https://tokujukublog.wordpress.com
TOC徳塾ホームページ http://toctokujuku.wordpress.com
TOC徳塾
TOCの窓 卒塾した生徒のお母さんから NO.135
卒塾した生徒のお母さんから
先日TOCを卒塾した生徒のお母さんから、お手紙をいただきました。
了解を得てここに掲載させていただきます。
彼は小学1年生から10年もの間教室に通ってくれました。
今では180cm近くの立派な体格をした高校生ですが、
「どんぐり」を始めた当時は小さくかわいらしく、
ノートを広げて一生懸命考えていた様子が今でも目に浮かびます。
TOCを始めて間もない頃、
サクラの花びらの問題を途中で絵を省略したところから分からなくなり、
泣いてしまいましたね。
でもそれから10年、優しい家族に見守られながら、
しっかり、じっくり、ゆっくりと成長していきました。
大阪の進学校の私立S高校にも中学受験時は、
普通コースだけでなく難問ぞろいの出題の難関コースに最後に合格するというツワモノです。
私学進学校の例にもれず、
高1ですが公立高校の高2の範囲も終わろうかという状況なので、
大学受験のための新しい情報を持たない私の元を離れ、
受験を意識し自主自立の気持ちをもって、予備校も射程に入れることを進めました。
今回彼に卒塾してもらった理由です。
そして私は、若い頃とは違い
自分の置かれた環境を直視し子どもたちと切磋琢磨を続け頑張ろうという気持ちよりも、
ここ10年ほど前からは
子どもたちに囲まれ幸せな時間を過ごさせてもらっているという感謝の気持ちが
とても強くなってきていました。
そんな気持ちの変遷とともに成長してくれた生徒のお母さんから、
こんな私に書いていただいたお手紙がとてもうれしかったことが、
ここに披露しようと思った理由です。
それでは、褒められすぎて少し恥ずかしいのですが、
頂いたお手紙を披露させていただ
こちらこそありがとうございました。
私にもTOCに通ってくれる生徒一人ひとりに思い入れがあります。
なかなか伝わらないもどかしさもありますが、
これからも
しっかり、じっくり、あせらず、あわてず、ゆっくり
お付き合いさせていただきます。よろしくお願いします。
じゃあ、また。
TOC徳塾
TOCの風 NO.8 キノコ
最近、友人がキノコ栽培を始めたと聞き,あらためて考えた。
昔から菌類には興味があった。
ホダ木や地面の下にはいろいろな菌類がうごめいていて、始終、切磋琢磨して、栄枯盛衰があったりするそうだ。
菌類は、何もなければそのままどんどん増えていくのだが、たとえば、冬の寒さに向かうとか、夏になって急に暑くなったりとか、気候の変化などのストレスがかかった時、そのままの増え方ができなくなるらしい。
それでキノコになってしまう。
だから、キノコというのは極度にストレスのかかったときの異常事態の産物といえる。
彼らのスタンダードな状態は、私たちの目には見えない木の中や地下の菌糸というわけだ。
人間というのも、このキノコみたいなものではないかと最近思う。
地下でみんな繋がっているんだが、たまたま何かの異常事態によって外に出て、生きている。
そう考えると、死ぬということも、キノコがまた菌糸に戻るように、「ひとつ」に戻っていくことかもしれない。
ただ、この「ひとつ」の概念というのが難しくて、ひとつであるんだが、なんて言うのか・・・。
ちょっとまだこの辺が上手に表現しきれない。
最近、私は、生物が歳をとるというのは、なんとなく輪郭がぼやけていっていることのような気がしている。
クリアな個から、だんだんぼやけていって、「ひとつ」になる準備をしているのかな、と。
そう考えると、たとえば認知症の老人も、個としての進化の最先端にある気がする。
キノコで言えば、また元に戻っていこうとしているという状態。
だから、彼らは異常であり可哀相だという見方は、違う。
大きな変容のひとつなんだと。
じゃあ、また。
かつおのたたきを作ってみた 家庭科 NO.7
近所の魚屋で珍しくハガツオが売っていた。目が透き通って新鮮だ。今日はこれをたたきにしてみよう。
昔々の小さな頃は新しいものが流通していなかったのかこれの煮つけが嫌いで、一口食べると食卓でオエッーとえずいてしまい、今は亡き母親によく叱られた。今ではそのカツオの煮つけも好物である。人間は変化していくものである。 いやほんと。 こんなことをしている私が居るし。
さて、まずは3枚におろす。うろこはないし身も柔らかくおろしやすい。骨も柔らかく、骨もあらも愛犬ジジにごちそうだ。
右下のガラスボウルにある内臓も結構量があるなと思っていると、胃袋になんとアジが3匹も入っていた。これで高級おつまみの酒盗を作ろう。レシピを見ると半溶解の内容物も含め塩をまぶして発酵させ、細かく切って調味料少々で出来上がりらしい。前回のタラの塩辛もうまかったなあ。酒盗つくりも後でやってみよう。
さあそれでは、藁はないので薪ストーブの残り香の中で、炙っていこう。
肉厚なのでしっかり焼き目をつけて香ばしい匂いが漂ってくるまで十分炙ろう。そしてすぐに氷水に放ってしめる。
たったこれだけ。後は厚めに切って、ニンニクと玉ねぎとネギ、の薬味をのせて盛り付ける。
簡単に出来上がってしまった。さあ、それでは召し上がれ。
断面をもっと写せばよかった。もう食べてしまったので残念。
味はというと、カツオとサワラの中間的な良いとこ取りの、柔らかく、といって肉厚なので香りと歯ごたえもよく、最上級の上品な味。とにかく旨い。商店には悪いが、自分で作ったほうが圧倒的にうまい。私は高知風に旨い塩と薬味で食べるのが好きだ。ご存じなかった方は一度お試しあれ。
おまけの酒盗。奥さんには見た目で評判が悪かったのだが、塩付けにしていたものを細かく切って酒・みりんを合わせて出来上がり。味見の段階で無性に日本酒が飲みたくなってしまった。これも酒のあてとしてとても美味い。
じゃあ、また。
TOCの窓 今、賢い親は何をすべきか。 NO.134
今、賢い親は何をすべきか。
先日、相談があると突然教室に入ってきた母親がいました。普通なら、電話もせずに授業中突然教室を訪問すれば、迷惑になるのではないかと考えるはずです。それが最低限の常識です。しかし、複数の塾を比較してどこが一番得かという(自分の子どもに合っているかは考えない)損得勘定しか頭にないこの母親は、そう考えるだけの社会性がない。社会から要求される常識的な大人としてのふるまいができず、わがまま勝手な個を突出させる。「あるべき自己」と「わがまま勝手な自己」が一体化してしまい、自分を客観視できないのです。これは、私が問題だと思う子どもの特徴だったのですが、今では親までがそうなりつつあるようです。いや、親がそうだからこそ、子どもが社会性を欠落させるに至ったのだというのが真相なのかもしれません。キレる子どもの背後にはキレる親がいる可能性が高いのではないでしょうか。 ところが、こういった社会性が欠落している親子でも、等価交換を原則とする契約社会では自立した一人前の顧客であり、このうえない丁重な扱いを受けます。それがあたり前の世の中なのに、たかが塾の教師に後日出直してくださいと言われた。私を誰だと思っているのかしら!お客様、お客様よ!その接客態度は何!というのが母親の言いたかったことでしょう。要するに、消費者として一人前であれば(お金さえ持っていれば)、内面にどんな人格的欠陥を抱えていても、だれからも非難されない社会になったということでしょうか。 私は生徒を「お客様」「お子様」扱いする気はありません。生徒に合わせなければ何事も始まりませんが、生徒に完全に合わせてしまっては知識の伝達すらうまくいかないのです。私からすれば当たり前のことなのですが、「それはお前の勝手な言い分だろう」「消費者主権という言葉を知らないのか」「競争社会の厳しさがわかってない」と反撃されるかもしれません。 しかし、生徒をお客様扱いすることは、教育の中に市場原理を持ち込み、教育を商取引と考えることを意味します。商品交換経済は生徒と教師が対等だという意識を高めます。 しかし、生徒と教師の関係はフラットだという感覚が生徒の中に浸透すればするほど、自分の気に食わないことを言われるのが耐えられない、許せないという感覚が強くなるのは当然ですね。 自分の外部に自分の屁理屈がまったく通用しない世界があるのだということが見えなくなる。要するに自我を絶対化してしまうのです。そして、自分の気に入らない人間は皆「変な人」になります。結果、教師の言うことが客観的な知識に関するものでも受けつけなくなる。学力低下が進行するのは当たり前です。 商品交換の発想では教育は成り立ちません。教育はとりあえず、生徒対教師といった共同体的な上下関係で始めなければなりません。教師に権威が必要なゆえんです。こういった考えを否定して教育の中に市場原理を取り入れたとき、子どもたちが身に付ける商品価値の中に、人と付き合う力・折り合う力・自分を抑える力・集団に馴染みそれを変えていく力などが入ってくるのでしょうか。 「知」と両立し、それを支える人間性がなければ、商品価値としては最高の「東大」を卒業しても、社会では使い物にならないのです。 私は「知」の伝達に重きを置き生徒の内面に干渉することは極力抑えてきましたが、膨大な量の一見関係のなさそうに見える知識の背後にあって、それを支え一定の目的に向けて知識を自分の身体のように使う力のおとろえを、生徒の中に見ることが多くなりました。 生まれてから貧困も抑圧も経験せず、深刻な対立や生命の危険にさらされることもなく、市民社会的な自由を満喫し、ヴァーチャルな情報空間を泳いできた子どもたちの「ありのままを肯定」すればどうなるか。 学習面に限って言えば、自分の望む内容を、自分が望むレベルとペースでやれなければ不満に思い、いつもイライラする。勉強はウザったいし、疲れるだけだと感じる。最小限の努力すらしなくなる。それでも「勉強してもらいたかったら」それなりの環境を整えて、楽しく分かりやすく教えろと要求してくるにきまっているのです。 もともと子どもが勉強することは、それほど簡単なことではありません。外国語の文法を身に付けたり、数式の意味を理解することは「外部」の価値を受け入れていくことです。子どもたちの「内部」からすれば、一種の屈服です。勉強することは自分を変えていくことを意味しますが、今の子どもたちは自分を変えなければならないとは考えていません。 さらに、こういった商品交換的発想のもっとも大きな落とし穴は、生徒達をすでに学ぶ主体として一人前扱いしていることです。どのような職業や生き方をめざそうとも、共通に身に付けるべき知識や常識や道徳があるはずです。その存在に無理やりにでも気づかせることが子どもたちを社会化するということです。この段階に達していない子どもたちの「個性」を尊重し、何を学びたいか「望むもの」を聞けというのでしょうか。 人間は文化的な動物です。動物のようにもって生まれた遺伝情報によって自然に成長し成体になるわけではありません。子どもの衝動や欲望に合わせて子育てをすれば、文化的な存在としての人間にすることはできません。 前回ブログ(NO.133)で、教育格差を生み出しているのは家庭の文化力だと述べました。その一つの生活の基本的な型を作る力の中身はここにあります。 つまり、教育の本質は、子どもとの衝突を恐れず、子どもが屁理屈をこねだす前から、人として自立できるだけの知識を与え、「しつけ」によって人としての文化的振る舞い、身の処し方を教え込むことにあります。子どもたちは官僚や評論家が勝手に作り上げた理念的な世界を生きているわけではありません。その子にとってぬきさしならない現実を生きているのです。 日本の教育の危機は、共同体的発想を市民社会的なものに変えるのが遅れていることにあるのではなく、共同体的な文化や振る舞いが価値のない遅れたものだと考えられ軽視されていることにあるのです。国境を越えるグローバルな経済システムに合わせて教育システムを変えなければとあせっているのは、世界広しといえども日本ぐらいではないでしょうか。 例えば、どんなに進んだヨーロッパの資本主義国においても、共同体的な独自の文化や歴史や宗教を排除し、近代的な「個」が経済活動によって無機質につながっている純粋な市民社会など存在しません。ヨーロッパの素晴らしさは独自の文化を持った地方都市にこそあります。 この30年間、家庭や地域は大量消費社会・高度情報社会・商品経済の論理・情報メディアに無防備のまま晒されてきました。子どもたちは家庭や地域や学校からよりも情報メディアによって「教育され」、人格までもが情報メディアによって「作られ」ています。 時間をかけて粘り強く一つのことを追求する「考える主体」は消滅し、「消費する主体」が誕生します。人々はお金があれば何でもできる消費社会の便利さをよろこんで受け入れ、それを進歩だとみなします。その結果、人間の価値はどれだけお金を稼いだか、稼げるか、で決められるようになりました。 学力差や能力差が経済的な見返りとしてはねかえってくるがゆえに、成績を上げて子どもの商品価値を高めたいとする親たちの欲望が学校に押し寄せ、共同体的な学校文化を壊し、子どもを点数で一元化する偏差値体制を作り上げたのです。 学校が勝手に偏差値体制なるものを作り上げ、その「序列主義」が社会を汚染したのだと考える評論家がいますが、現実がまったく見えていません。真相は逆なのです。 さらに学校は、「消費する主体」としての子どもたちの意識と行動を、それまでの考え方では捕らえきれなくなった結果、より強力に子供たちを規制しなければならなくなったのです。あるときは偏差値体制の生みの親だと非難され、あるときは親に代わって子どもに言うことを聞かせるようにとせかされ、他方では「人権抑圧だ!」「管理主義だ!」とたたかれる。かくして、学校は社会から孤立することになったのです。私は30年以上にわたって、塾の教師という立場から定点観察をしてきて、このことに気づかざるを得なかったのです。 共同体的社会の中では子ども達は常に他人のことにも気を配り、できない生徒も同じ社会の一員だと考えていました。授業中私語をすればほかの仲間に迷惑をかけることが分かっていたので、教師に注意されると、すみませんと謝っていたものです。また、共同体的な価値観を持っていた昔の親は、自分の子どもを中心におきつつも、ほかの子どもや学校にも配慮していました。幸いにも私の住む地域では、ほとんどの親は常識を心得ており、共同体的文化の良さを身に付けています。 しかし、一般的な傾向として、現在の親は自分の子どもの言っていることを無条件に信じ、成績や利害だけに執着していて、ほかの子や学校、教師のことを考える余裕がないようです。家庭も地域も学校も、グローバルな資本主義経済システムの侵食にあって独自の文化や生活観を喪失し、個の利害だけに関心がある、単なる雑居集団になりつつあります。「学級崩壊」は必然的な成り行きだったのではないでしょうか。 善悪の判断すらついていない子どもたちから共同体の規制力(地域のお祭りや行事で生活や文化を学んだり、祖父母から厳しくたしなめられたりすることなど)を剥ぎ取り、消費社会の中に無防備にさらすことが自由な社会だと勘違いし、いとも簡単に情報メディアに操作される親の生き方にこそ本当の原因と責任があるのです。つまり家庭そのものが大きな曲がり角に来ているのです。私たちは子どもを育てる上で、本当に地域共同体よりも徹底的に市場化された社会がいいものなのか、進んでいるものなのかを問う地点に来ているのではないでしょうか。人間として一人前でないのに、消費者として一人前扱いする社会は、意識できないところで深く病んでいます。 意外に思われるかもしれませんが今でも良い学校は、私立のトップ校であろうと公立の上位校であろうと、部活や文化祭や生徒会活動に情熱を傾ける共同体的文化を持った学校だと私は確信しています。その中で子どもたちは市民社会的な自由と折り合うすべを教師からよりも、むしろ先輩や仲間から学んでいくのです。 もちろん、そういったコミューナルな学校文化を嫌悪し、受験情報を求めてウェブ上をさまよい、学校の授業よりも予備校が配信する衛星授業やDVDのほうを信頼し、抜け駆け的な勉強をしている生徒もいるでしょう。 ただ、いずれにせよ自立する前の子どもにとって、「個」として出かけ、「個」として学んで帰ってくるような学校がいい学校であるはずはないのです。 最後にまとめて、『今、賢い親は何をすべきか』という問いに、簡潔に答えを出しましょう。 学ぶことが本質的に困難になっている時代に子どもたちを学びに向かわせようとすれば、家庭=親は、まずは子どもたちを共同体の規制のなかで厳しく育てながら、早い段階から「消費主体」としての自信を持たせることが危険だ、と認識できる教養と文化力を持たねばなりません。 その上で、人が生きるということは単に経済的な成功だけを意味しないのだということを本気で教えるべきです。昔の人は子育ての要諦を「少し飢えさせ、少し寒がらせる」と簡潔に表現しています。家庭に文化がなければ、子どもたちは消費社会の荒波に翻弄されて自分を見失い、踏み惑い、後ずさりし、引きこもってしまいます。あるいは、社会に過剰に適応しようとして、精神を病むでしょう。 それでも、ライフスタイルを資本の最先端の動きに合わせることを良しとすべきなのでしょうか。 私事ではありますが2人目の孫『遼』の誕生を祝して、猟師で教師の祖父より じゃあ、また。 TOC徳塾
今年度夏期集中講習中止について
TOC開塾以来34年にわたって、実施してきました夏期集中講習を今年度は中止します。
コロナ禍により夏休み期間の短縮が行われました。例年に比して1学期学校授業進度の大幅な遅れが出ているにもかかわらず、大量の課題が出されている現状を見て、今の段階ではいろいろストレスのかかった子供たちに、短い夏休みにはせめてゆっくりした時間をつくってほしいと考えています。通常授業の範囲内で、学校課題の質問やテキスト・プリントによる復習、個人によっては先行学習も進めていきます。TOCの生徒はそれで充分対応できます。
夏期集中講習参加を条件に、2学期定期テスト前1週間の毎日テスト対策をしてきましたが、今回夏期講習中止でも、2学期の無料対策は続けます。
なお8月12日から17日まではお盆休みとなります。8月7日までと、8月18日から通常授業です。中学生はお盆休みの間の振替は、教室が密になるのを避けて9月にも振り分けてください。よろしくお願いします。
TOCの窓 NO.133 教育格差は親の経済力に比例しているのか?
TOCの窓 NO.133
教育格差は親の経済力に比例しているのか?
私は父を早く亡くし母子家庭でしたし、私自身も大学卒業後紆余曲折を経て、作った家庭も決して裕福ではなかったのですが、子供たちは3人とも奨学金を受けて国立大学に行き、医者になりました。経済力はないのですが、単に珍しい例外の一つなのでしょうか。決して自慢する気持ちはありません。ただ今日、教育の分野では、教育格差・学力格差という言葉があたりまえのように使われています。そして、教育格差は親の経済力に比例しているという言説が最近の流行です。果たしてそうなのでしょうか。そんなに単純なのでしょうか。
私が子どもだったころ、一部の金持ちは別として、みんな貧しかったし、親の経済力とは関係なしに勉強ができる子どもはたくさんいました。ただ私のいた神戸の高羽小学校では、1967年頃には市立でありながら「別勉」と称して、学校教師が金持ちの子弟を集めて各家庭持ち回りで受験指導をするという塾の前段階ともいうべき体制が出来上がっていました。大規模塾もある現代では一体何が変わったのでしょうか。
1980年代半ばのバブル景気到来を境に、消費主体として分断された個人や家族は、経済力に応じて自己実現のためのさまざまな手段を手に入れようと奔走し(いわゆる財テク)、地域共同体の桎梏から逃れようとし始めます。その結果、学校は存立の基盤である地域共同体の支えを失ったと言われています。情報化社会はこの趨勢とパラレルに進展していきます。そして、すぐれた情報もそうでないものも等価に人々の前に投げ出される。企業は情報の差別化を加速する。心脳コントロール社会の登場というわけです。結果として、情報の価値を識別する能力のある層とそうでない層がくっきりと色分けされるようになります。ご存知の方も当然おられると思いますが、実は経済的な格差は情報識別能力と比例して広がっているといわれています。
教育の世界に話を戻すと、教育格差を生み出しているのは、親の経済力だけではありません。経済力があっても、もっともらしい情報を鵜呑みにして振り回されている親が多いことを考えると、「教育格差を生み出しているのは、親の経済力」という主張には無理があります。これは、現象を結果から見ているに過ぎません。経済的な格差は原因ではなく結果なのです。
結論から言うと、教育格差を生み出しているのは、実は家庭の文化力なのです。この文化力には二つの側面があります。一つは、子どもにきちんと挨拶をさせる、朝ごはんは必ず食べさせる、夜更かしをさせない、家の手伝いをさせるといった生活の基本的な型を作る力のことです。しつけをきちっとして、学習に向かわせる姿勢を身につけさせることは、本来、経済力とは関係なく家庭でできることです。二つ目は、親の情報識別能力です。具体的にいうと、子どもたちが学ぶ知識にレベル差があることを親が理解できているかということです。TOCでも面談で時々話すのですが、知識には以下の4つのレベルがあります。算数を起点に例を挙げてみましょう。
1:分数の割り算のやり方を知っているレベル。
2:なぜ、分母と分子をひっくり返して掛けるとよいのか、その理由を理解しているレベル。
3:こういった知識を持っていることが教室の中でどのように評価されるかを知っているレベル。
4:このような評価の仕組みが、疑われることのない、当たり前のこととして受け入れられている世の中のからくりを知っているレベル。
現在は、この知識のレベル差に応じて教育格差が広がり、結果として、経済格差につながっているのです。文化資本主義とよばれる所以です。そして、学校やほとんどの進学塾で教えられる知識は1のレベルで止まっています。進学塾に長年通わせているのに結果が出ないとぼやいている家庭はこのレベルの知識の習得が終着点と考え行き詰っています。学ぶ当事者としての子供の内面も見落としている場合が多いです。そして私がTOCで確かめると、2のレベルに達している生徒は実に少ないのです。2は一応教えられていても形だけです。割り算や分数・割合の本質、分数の割り算が通分と関係していること、それが中学・高校の数学の中でどのように生かされていくのかなど、ほとんど理解できていません。
例えば、ファーストフード店に代表される外食産業の接客マニュアルを思い浮かべてください。それは、かなり接客能力の低い人を前提に、大量に、最短の時間で、とりあえず最低限の社会的基準(学校の定期テストや高校入試必勝マニュアルに当たります)をクリアすることを目的に作られています。その結果、このマニュアルをクリアしても、能力は低いままなのです。この低い能力を社会的基準以上に高める仕組みはありません。どんな客にも同じパターンを、機械のように繰り返すだけです。返答の仕方、笑い方まで決まっています。相手を見て対応することなど不可能なのです。しかし、それはそれで、社会の必要性に答えています。手軽で早いことは価値の一つですし、それだからこそ逆に消費者は安心できる面もあります。
すべての方法には、それぞれの目標があり、前提とする能力、その方法によって高められる能力のレベルが決まっています。それをしっかり見極め、自分が求めている能力にふさわしい方法を選ばなければなりません。そして、この点こそが大事なのですが、多くの方法は、能力の現状をそのままに、それをいかに有効に使えるかだけを問題にしています。入試問題の解き方だけを覚えても、その前提である能力そのものが現状のまま維持されるのであれば、学ぶことそのものは永遠に続く苦役になるでしょう。結果として、「教科書や参考書にのっているようなすでに内容が決まっている知識を、ある量、なんとかテストまでに頭に詰め込む」ことが勉強と考え、それを少しでも楽に効率よくさせてくれるのが勉強法だと考えるようになります。
中核的な概念、知識、公式などと、周辺部とが関連付けられているような知識体系が有効で、そのような知識体系の形成を目指して勉強しようという発想は出てきません。私がTOCで教える方法は、能力を伸ばすこと自体を第一の目的としています。ですから、努力が必要です。「最短時間」で「効率よく」、というわけにはいきません。
もちろん、塾は「最短時間」で「効率よく」生徒の学力を伸ばし、不況ともなれば「最小の費用」でという要求にも応えなければならない産業です。学校と違い、激しい競争にさらされ、「市場の淘汰圧」を受けていることで人々の信用を得ています。「この情報になら対価を払ってもよい」という消費者が一定数確保できなければ存立できません。その厳しい条件が塾の発信する情報の質を保証していると人々は考えているようです。
原理的には確かにそうかもしれません。しかし、現実はそうではない。「この情報になら対価を払ってもよい」という情報消費者の「ニーズ」に迎合することで、塾の発信する情報の質は一貫して低下し続けているのです。生徒を増やそうとすれば、宿命的に塾は「よりリテラシーの低い不特定多数の保護者」を相手にしなければならないからです。つまり保護者が「興奮する素材」を絶えず提供し続けなければ生き残れないということです。塾が提供できる「興奮する素材」とは「合格実績」と「受講料の値下げ」しかありません。
食品の産地偽装や汚染米の流通が問題になるのは、健康に大きな影響を与えるからです。しかし、人間の心や精神に影響を与える知的情報の偽装や汚染度は、影響が目に見えないために問題にされません。私は知的情報の劣悪さが子どもたちの日々の振る舞いや思考にどのように影響を与えているか、目の当たりにしています。情報識別能力のある家庭の文化力とは、直感的であれ、意識的であれ、こういったことのからくりがわかっていることを指します。
労働力は商品ではありません。同様に、子どもたちの学力もファーストフード店で売られている商品ではないはずです。魂をもった子どもたちを商品扱いすれば、そのツケはかならず払わなければなりません。家庭の中でも、国家のレベルでも。
ですから、私は入塾を子どもの現在の学力で計りません。きちんとしつけがされているか、勉強する意欲があるかだけを判断基準にして、先着順で受け入れています。特に最近の3回の闘病経験と、やっと自分たちの子育てを終えたことは、この方針として特に意識するようになってきましたし、このような場で次々と私の内面を披露し始めた所以でもあります。
最後になりましたが、実は知識のレベルには5があります。それは、「このような評価の仕組みが、疑われることのない、当たり前のこととして受け入れられている世の中のからくりを知って(4レベル)、それをどう変えていけばよいのかを知っているレベル」です。これは教育の最終目的であり、価値判断の問題になります。そして、知ることは価値判断と無縁ではない。つまり、知ることは、どう生きるかということと結びついているのです。
じゃあ、また。
TOC徳塾
ニュースレター NO.31 コロナ感染拡大にともなう授業形態の変更について
お知らせ
コロナ感染拡大にともなう授業形態の変更について
政府が緊急事態宣言を発出したのを受けて、大阪府が民間施設に休業要請を出しました。兵庫県もこれに倣うと12日に発表があり、100㎡以下の学習塾は休業要請対象外になりました。そこで100㎡以下のTOC徳塾でも(ご家庭の要望がある以上)授業自体は継続することにします。ただし、通塾するかどうかは各ご家庭で判断してください。お休みとなられた場合でも従来通り振替は可能です。
なお、授業形態を従来と少し変更します。
1.授業中は、暖房をつけたうえで教室の換気扇を回し続けます(密閉回避)。
2.授業中は、生徒も(マスクの持ち込みよろしくお願いします)私もマスクをつけることとします(密接回避)。
3.授業中教室内は対面禁止の5人以下とします(密集回避)。
4.教室内備品(机、椅子、ドアノブ、鉛筆削り等)と生徒の教室退出時のアルコール(残りわずかですが)またはグルコン酸クロルヘキシジン消毒液(手術等で患部に使う無色の消毒液―優秀な消毒液だそうです)での消毒。
5月ゴールデンウイーク期間中は教室はお休みとします
兵庫県の休業要請を受けて兵庫県、4月28日から5月6日まではお休みとします。4月30日と5月1日は5週目のお休みの振替とさせていただきます。
5月7日にはコロナの猛威も沈静化してくれることを願っています。
TOC徳塾
鹿肉(ジビエ肉)を食べてみませんか 塾長が猟師になった! NO.4
この時期の狩猟期間中は、休日に西脇市黒田庄町近辺で狩猟をしています。鉄砲は使わず、待ちの狩猟である罠猟です。地元の方たちと協力して農産物を守っています(笑)。
狩猟を始めた動機に関してはブログ『塾長の講義とつぶやき』中の「塾長が猟師になった!NO.1」をご覧ください。当時の心境等も詳しく書いています。
例年細々と仕掛けては失敗の連続ですが、たまに獲れます。友人や昔からの生徒さんたちにお分けして喜ばれていたのですが、今回は1歳半のメス鹿が2週前に獲れて10人ほどの人たちにお分けしました。ところがどうしたことか先週も3歳メス鹿が獲れ(5歳までのメスは柔らかくjuicy)、解体精肉しています。熟成に1週間はかかるのですが、今なら新鮮なジビエ肉を食べていただけます。臭みの原因になる血抜きはほぼ完ぺきにしています。全く臭みはありません。お分けした皆さんからは上等な牛ヒレ肉のようだと好評をいただいています。脂肪分の少ない、ヘルシーな高タンパク赤身肉はいかがでしょうか。もちろん無料で差し上げます。初回の方には300gほどでどうですか。試してみてください。授業シートに「お肉ください」と書いていただければ、次回用意しておきます。
(この内容はTOC塾生宛てに書いたものです。)
鹿カツの作り方 TOC徳塾森北自然教室
◎鹿肉は極端な赤身肉で脂肪分が少ないため、ゴマ油(フランス料理ではオリーブオイル)をかけて揉みこむのが裏テクです。脂分を補う調理の仕方がポイントで、ジビエ料理でもソースやバターが決め手となっています。その点、鹿カツは手軽で一番美味しい食べ方です。
1.へレ・ロース肉やモモ肉を6~8mmくらいの厚さで切り分ける。
固い肉の場合は、それに切り込みを入れたり、叩いたりした方がよいです。
2.それに塩胡椒し、下味を付ける(ニンニクはお好みで)。
3.あとは、小麦粉と卵とパン粉をつけます。
4.それを油で揚げたら完成です。
注・脂身が多い場合、鹿脂は融点が高いので、ちょっとでも冷めたら脂身がざらっとして美味しくなくなります。その点からもカツがおすすめです。鹿刺しが最高という人が多いですが、生で食べたことはありません。 ただローストして薄切りにし「たたき」で食べるととてもおいしいです。
鹿肉ステーキ
(鹿脂の点からはホットプレートのほうが良いかも)
1.切り込みを表裏に入れます。
2.塩胡椒し、下味をつける(ニンニクはお好みで)。
3.フライパン(ホットプレート)を温め、バターを溶かします。ここがポイント。
4.そのうえで、ミディアムレア程度に両面を焼き、温かいうちにいただきましょう。
5.焼き肉のタレをかけてもいいですが、個人的にはワサビ醤油でいただくのが好きです。
それでは、どうぞご賞味を!
TOC徳塾
TOC 徳塾