TOCの風

立ち止まることは 悪いことじゃない。TOCの窓 NO.132

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ずっと前ネットでいろいろ探しているとき,たまたまそうだなあと思う言葉に出会ったので、メモしました。時々見返すことがあります。  その後、出典を探したのですが、見つかりません。知っている人がいれば教えてください。  もっと書かれていたことがあったかのかなとも思うのですが、これだけでも、もしかしたらあなたの心に引っかかるところがあるかもしれません。  作者は分からず了解を得ることもできずに、申し訳ありませんがここにそのまま書かせていただきます。  猛暑の夏、 ちょっと立ち止まることは 悪いことじゃない  と思います。

笑えるのは  楽しんでる証拠。

怒るのは  真剣だった証拠。

喧嘩するのは  一緒だった証拠。

つまずくのは  進んでた証拠。

裏切られるのは  信じてた証拠。

失恋するのは  愛してた証拠。

「疲れた」は  頑張った証拠。

失敗したは  挑戦した証拠。

「もうやめようかな」は  まだ希望を捨てずにいた証拠。

「素直になれない」は  それだけ愛してる証拠。

もういいは  ぜんぜんよくない証拠。

大丈夫は  ぜんぜん大丈夫じゃない証拠。

いつもへらへらしてる人は  過去に何かあった人。

よく笑う人は  よく泣いた人。

よく大丈夫と言う人は  よく無理をする人。

よく強がる人は  よく我慢する人。

幸せな人は  辛さを知ってるから

優しくなれる。  強くなれる。

努力する人は  希望を語り、  怠ける人は  不満を語る。

泣きたかったら  泣けばいい。

辛かったら  頼ればいい。

我慢できなかったら  我慢しなくていい。

笑うのが疲れたら  無理しなくていい。

「明日笑えるかな」って思うより

  「明日少し笑ってみよう」って思うほうが  辛くない。

立ち止まることは  悪いことじゃない。

辛いとき。 苦しいとき。

少し休憩して 

 またもう一度歩き出せばいい。

 

じゃあ、また。

刃物研ぎ  工作くん  NO.9

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雨で2週連続デッキの床はりが流れたため、久しぶりに刃物研ぎです。

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キッチンの包丁も研ぐので奥さんも喜んでくれます。

自作の研ぎ台で角度を保ってひたすら研ぐと、汗もうっすら浮かんで無心になり、気に入ってます。

角度の取り方、それを一定に保ち研ぎを繰り返すためには姿勢から整えねばならず、なかなか難しいですよ。

秋の長雨の日は、家でこんなことをやってます。

じゃあ、また!

理科まとめ 1年物理8 密度

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中間テストを目前にプレゼント

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理科まとめ  1年物理 7  有機物と金属

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年長さん授業料無料で~す

じゃあ、また。

TOCの風 NO.7 Believe in yourself

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外科医のブログにあった話です。複数の大学病院で診断されたバージャー病による難治性潰瘍の女性の患者さんが話してくれた内容だそうです。

………………………………………………………

私が(アメリカ人の)夫に

「どの病院に行っても足を切断しなさいといわれる。でも、私は切断なんて嫌。私、どうしたらいいの?」

と愚痴をこぼしたら、彼はこう言ったんです。

「○○子。君はなぜ自分を信じないんだ。君が正しいと思う道を進むべきだ。足を切断されたくなかったら、『足を切断しなくていい』という医者を探して、その先生を信じてついていけばいいだけじゃないか。難しいことじゃないさ。自分を信じて自分らしく生きていけば、道は必ず見つかるさ。

この夫の言葉を聞いて、医者の言葉に振り回されていた自分が馬鹿みたいに思えました。そういうわけで、今、先生の外来に来ているんですよ。

……………………………………………………

アメリカ映画には嫌というほど登場する「自分を信じて」という言葉ですが、こういう意味だったのかと目からウロコがボロボロ落ちました。

このアメリカ人の考え方は、筋が通っていてちょっと格好いいです。

じゃあ、また。

 

TOCの風 NO.6  入院して思ったこと

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このあいだ10数年ぶりに入院した。こちらの体調があまりよくなかったのは2日目ぐらいまでで、あとは朝早くに検査のために病院のなかを右往左往するほかは、ベッドに腰掛けて窓の外をボォ-ッと眺めていた。久しぶりに、何もせずに。

その部屋は比較的大きな四人部屋だったのだけれど、どの人も入院したばかりの、言ってみれば「処置待ち」の部屋だったようだ。わたしのいたベッドは、入り口からすぐの突き当たり窓際にあり、窓の先には近代的なビル、街路樹が並ぶ車の少ない通りと、遠くにはキリンのような形のコンテナを吊り下げる巨大な機械が小さくいくつも見え、真っ青な海と空が広がっていた。

そして、まったく同じベッドが、カーテンの間仕切りの向こうにひとつ、反対の奥にふたつ並んでいる。日中でも閉め切ったままのカーテンの向こうにどんな人がいるのか、うかがうことはできなかったけれど、まず、看護婦さんの話しかける調子から、両隣りは高齢者であることが知れた。

おじいちゃん、とは、さすがに呼びかけないけれど、「○○さん!」という呼びかけからして、すでにわたしなどに対するものとはちがう。

「○○さん、おはよう! 昨夜、どうやった? ちゃんと寝られた?」
必要以上の大声は、耳の遠い相手にはありがたいのかもしれない。けれども、丁寧語を省いたなれなれしい呼びかけ、まるで相手が小さい子供でもあるようなしゃべり方は、優しい、とか、親しみを込めた、というよりは、逆に、上から押さえつけるような、強圧的な物言いのようにも思えた。

「そうなん? それはあかんね。先生に聞いてみようね」
看護婦さんが変わっても、そのしゃべり方はみな同じだ。いったいどうしてこのような話しかけ方が定着したのだろう。

看護婦さんと交わす声から、同室の人のおおよその様子は察することができた。
入り口脇の人は、ほとんど寝たきりで、何か聞かれても弱々しい声で答えるだけだったけれど、奥の人は、ずいぶんはっきりとした口調だった。朝の検温で、回ってくる看護婦さんに体温を告げる声も、問診のときの返事もしっかりしている。声を聞くだけでは、退院も早そうな感じだった。それでも、両者に対する語りかけの姿勢は同じであった。まるで幼稚園の先生だ。

見舞いに来てくれた外科医である息子たちに聞いてみた。「お前たちも、そんな話しかけ方するんか?」「いや、意識してないなあ。」現場で見ないと分からない。

看護婦さんたちが、高齢者に対して、あたかも幼い子供に向かうような接し方をするのは、年を取ることを子供に、さらには赤ん坊に還ることというメタファーで理解しようとしているからなのではあるまいか。

赤ん坊に還り、さらには、赤ん坊が出てきたところに戻っていくのだ、と、どこかでそう思いこもうとしているのではあるまいか。

切り立った崖に向かって、まっすぐに歩いていく、というメタファーで人の生を捉えるのは、ある意味、恐ろしいことだ。

それよりは、円環するもの、「行く」のではなく、「還る」ものだととらえていくほうが、よほど〈老い〉にしても〈死〉にしても、受け入れやすい。

輪廻転生。
日常的に〈老い〉や〈死〉に接しながら生きる人の、それは一種の知恵なのではあるまいか。

同時にこれはまた、日本人が昔から受け継いできた死生観でもある。
小さな子供に、おじいちゃんの生まれ変わり、という。
虫のなかに生まれ変わった人を見る。
こうした死生観は、おじいちゃんと見られる人が若く当たり前のように暮らしていたその当時と、それほども隔たってはいない。違和感をもつほどにも変わっていない。

過去は、歴史は、過ぎ去ったように見えても、いろんな形でいまに現れている。 そんなふうに思ったのだった。

じゃあ、また。

TOCの風 NO.5 生意気であること

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小さなころ、わたしは素直でかわいい子だと言われていた。自分で言うのもなんだが天真爛漫な笑顔のかわいい男の子だった。いや証拠の写真は何枚もある。

いつの頃からだろう、生意気だといわれるようになり、そしてごく最近まで、わたしはずっと生意気だった。

考えてみると、ある集団において生意気でいられるためには、一定の条件が必要だ。

その人が相対的に年少者で、責任がないこと。
周囲の年長者・責任者がその生意気を許すこと。
少なくともこのふたつがなければ、人は生意気ではいられない。

たとえばその人が七十代だって、<老人会>に参加したばかりの若手なら、生意気でいられる。「こんなやり方は古くさい、きょうびの<老人>は、こんな古くさいやり方には馴染まない!」といって、八十代の中堅とか、九十代の古参とかに楯突くこともできる。

たかが16歳でも、ボーイスカウトや小学生相手のキャンプのリーダーを務めるときは、生意気なことを言う小学生の話に、黙って耳を傾けてやらなければならない。

こう考えていくと、ずっと生意気でいられたわたしは、大変周囲の人に恵まれていたのだし、それを良いことに好き放題やってきたのだと思う。よくまあ周囲が我慢してくれたものだ。

もしそういう人たちが、わたしの「生意気」な意見を、ひとつひとつ理論と経験の蓄積でもって論破していたらどうなっていただろう。もしかしたら、いつも恥をかくことを恐れるあまり、自分の意見を作ることすらしなくなっていったかもしれない。

少なくとも、自分で自分が生意気であったことに気がつき、自分の態度の誤りに気づき、さらには未熟な部分に気がつき、時間をかけながらそれを少しずつ修正してこれたのも、おそらく周囲の人が我慢してくれたからだ。

大目に見る、我慢する、言葉を換えていえば、ある程度までは放っておく、と言ってもいいかもしれない。おそらくそんなやり方では失敗するだろうとわかっていて、けれどもわたしのやりたいようにやらせてくれて、現に失敗してしまったようなこともあったにちがいない。「それ見たことか」と言いたいようなときもあっただろう。だが、ありがたいことに、わたしはどれだけ失敗しても、周囲の人からそんなふうに言われたことだけはなかった。遠くの人は思っていたのだろうが・・・。

だから、次第に生意気であることが許されなくなってきた今、わたしも年少の人、自分より経験の少ない人に対して、「そうなると思っていた」とだけは言うまいと固く心に誓っている。

ただ、教える側に回ってみれば、目の前で失敗へと至るプロセスを逐一見せられるのは辛いものだ。

よく、最近の親は過保護で、何でもかんでも親が手を出す、という言い方があるが、親が手を出すことと、過保護のあいだにはあまり関係はないように思う。たとえば二つぐらいの子が、靴をはこうとするのを見たことがある人ならわかると思うが、実際、靴を一足はくのに、いったいどのくらい時間がかかるかと思うぐらいだ。それをじっと見ているのは、おそろしいほどの忍耐力が必要で、たいていは待ちきれなくて手を出してしまうのである。だからそんなとき、修行だと思ってそれに耐えるか、そうでなければ一応目の届く範囲で、何かほかのことをしていた方がいいように思う。おそらく何でも手を出す親は、いろんな理由でその余裕がないのだ。余裕がないから、また手を出す。伸びる子の親は、やりたい、やめたいと子が何と言おうと鷹揚に眺めていたようだった。

ただ、わたしの周囲の人たちは、わたしが失敗するプロセスを逐一見守ってくれていたのか、というと、どうもそうではなかったような気がする。それぞれに自分自身の課題や仕事を持ちながら、そのひとつとしてわたしの面倒を見てくれていた。おそらくわたしを育てるという仕事は、その人たちにとって、それほどのプライオリティがあるものではなかったろう。だからこそ、好き放題にさせてくれたのだろうし、わたしの方も勝手に育つこともできたのだ。

そんなふうに考えていくと、育てる-育てられるという関係は、全身全霊をかけて向き合うものではないように思えてくる。何にせよ、育てられる側には、自分が育ちたい、というか、いまのままではいたくない、いられない、という強力な動機が不可欠で、そんなものを持っている子なら、放っておいても勝手に育つのだ。そんな動機こそが家庭で養われる必要があるものだろう。あとは話を聞いてほしがるときに、ふんふんと聞いてやり、ときどき、様子を見てやるぐらいで充分のような気がする。

なにしろこのわたしがそれで何とかここまで来れたのだから。

わたしの子供たちも然りである。

 

じゃあ、また。

 

TOCの風 NO.4  一人で、焼きそばパンとコーヒー牛乳

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ふだんあまり外出しないが、所用のついでに珍しく昼食を外で取った。初めての場所で、ファーストフードも見当たらない。しょうがないので、少し探したあと目に付いた店に入ることにした。イタリアの国旗が店の前に立てかけてあるのがちょっと不安だったが、入り口の小さな黒板には、Aランチ、Bランチとあって、それぞれ値段が書いてある。わたしが昼食にと思っていた金額より大幅に上回っていたのだが、少し考えて「たまにはいいか♥」と思って入ることにした。

ところが扉を押して一歩入るや否や、店構えからは信じられないほどの喧噪が耳に飛び込んできた。一瞬、戦争映画の途中の劇場に入ったのかと錯覚したほどである。

それほど広くない店はほぼいっぱい、二十人ほどの客は全員見事なまでに女性である。おっと、ちがった、何人か走り回っている小さな子供たちのなかに男の子がいる。ドアに手をかけたまま、このままきびすを返して外に出ようかと一瞬思った。

そうしなかったのは、バイトとおぼしき店のウェイトレス(そういえば最近はあまりこの言葉も聞かないが、もっとユニセックスなスタッフという呼称の方が好まれているのだろう。)と目がバシッと合ってしまったからだ。彼女はきびきびとした仕草でドアを引いてくれ、「お一人様ですか。こちらへどうぞ。」とわたしを招じ入れた。わたしは出るタイミングを失ってしまった。

隅の二人がけの席に通される。女性ばかりで、なんだか落ち着かず居心地が悪いが、覚悟を決めて、しばらく辛抱することにした。どうやら団体客というわけではなさそうだ。いずれもカジュアルな格好をした主婦とおぼしき人たちである。いわゆる「ママ友」というのか、三人から四人の仲良しグループのようだ。私などには全く無関心で、皆がみんな熱心にお話し中である。

イラスト - 女の子, 保有物, a, レストランメニュー. Fotosearch - クリップアート、イラスト、ポスター、スケッチとベクトル画像EPSグラフィックスイメージの検索

それにしてもやかましい。

確かに店が狭く、テーブルそれぞれで話をしていれば、隣りの声に混ざらないよう、徐々に話し声は大きくなっていくのかもしれない。店内がやかましいため、自分の話がかき消されないよう、声を張り上げる。その声が店内のやかましさをさらに倍加させている。とはいえ、川をはさんでしゃべっているわけではないのだ。自分の目の前にいる相手に話をするのに、そこまで大きな声を出すものだろうか。耳がわんわんしてきた。耳栓は置いてないのだろうか。

もしかしたら、大きな声を出すことで、ストレスを解消させようとしているのかもしれない。ただのおしゃべりにしては、なんだか妙に必死な感じもする。

こんなふうに主婦が誘い合わせてランチに出かけるということは、おそらくはそれほど頻繁なことではないのだろう。月に一回か、季節に1回なのかは知らないけれど、その日を楽しみにしてきたのだ。だからこそ、こんなにテンションが高いのだろう。

不意に隣の席の女性の声が耳に飛び込んできた。「このところ手抜きが続いてたから、おいしくておいしくて・・・・。」すると、その向かいにいた人は「そうそう、昼なんかまともに作れへんよね。昨日の昼は卵かけやったわ」「勝った! わたしはふりかけ」そこでどっと笑い声が上がる。

 

自分以外の人に食べさせるために、せっせせっせとご飯を作る生活を続けていると、自分ひとりの食事となれば、フライパンを使う目玉焼きを作ることさえいやになるのだろう。ときには母でもなく、妻でもなく、ひとりの人間として食事に行きたくなる・・・・父亡き後シングルマザーとして働きながら、わたし達の食事を作り続けてくれた母を見ていた。その気持ちはなんだかとてもよくわかるような気がした。

そうしたときの行き先は、すき屋やマクドナルドであってはならないのだろう。ちょっと気取った店でも、ランチならたかが知れている。そうやってイベントにして、予定表に書き込むのだ。

それでも「チィちゃんママ」「サーちゃんママ」と互いに子供の名前にママをつけて呼び合って、どれだけにぎやかにしゃべり合っても、子供を介在させた人間関係に気を遣いながら話し続ける。

なんというか、それはそれでしんどいことのように思えた。

高校時代、ときに母親の作る弁当を教室でみんなで食べるのがいやで、「今日は弁当いらん!」と言い残して家を出た。

昼休みに、売店で焼きそばパンとコーヒー牛乳を買って、山裾の川沿いのプールサイドにある剣道場の戸口で、ひとりで本を読みながら食べていた。

道場の静かさと、プールのにおいと、そこから見る普段とはちがう空はいいものだった。

そんなとき、頭の中で鳴っていたのは、ハービー・ハンコックの「ウオーターメロンマン」だったかもしれない。

 

いまの母親にも、そんなふうな昼食の場所はないものだろうか。

と、何となく思った昼下がりだった。

 

じゃあ、また。

 

TOCの風 (エッセイ) NO.3  ある体験授業の申し込み

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風 NO.3   

     ある体験授業の申し込み

             (桜薫る風にさそわれて)

先日、TOCのポーアイ教室で無料体験の申込みがあった。それも同じ人から2回目である。最近はどこの教室も無料体験ばやりで、当然のように請求する。そりゃ、どんな授業をしているのか、自分の子どもに合うのか、気になるところだろう。それはよくわかる。でも、1回の連絡もなく、こちらからの電話で、よくわからなかったので、もう1度体験させてほしいと言うのはどんなものだろう。何を分かりたいのだろう。

小さなポートアイランドで、27年教室を開いている。何も知らずに、ここに塾がある、どんな塾だろうと思ってくるのだろうか。

本山教室はまだ開いて日も浅いし個別指導である。森北教室も個別指導で、しかもイメージ思考だけという独特の授業をしている。私が親の立場でも体験できるのなら、させて欲しいと思うだろう。どんな内容の授業をしているのか。自分の子はついていけるのか・・・。

でも、ポーアイは少人数の一斉授業の従来からの形態の塾である。学校授業の少人数版である。以前は、体験授業などしていなかった。体験しないので入塾しないのもその子の運。縁がなかったのだ。それに一斉授業なので、今来てくれている子達のペースが乱れるので、とお断りしていた。突然の来客のあと、よくわからなかったのでと入塾しなかったあとに残された子たちは気の毒だ。でも、「えっー、体験授業されていないのですかー」と何人かに聞かれ、それならと時流に合わせてしまったのである。

ポーアイの場合、年間のカリキュラムを組んで授業を進めている。その流れの中での体験となる。その時々の授業の進行に合わせてテキストからプリントを作り、その時点での体験となる。授業の雰囲気やレベル、教師としての考え方・教え方・その内容、それぐらいしか伝えられない。もちろん授業料を頂いて指導している子たちにも、突然の来客という形で負担をかけてしまっている。大手の経営塾と同じにはできない。

そもそも塾になど行きたくないと思っている子の場合、授業体験をして何がわかるのだろう。授業の価値、教えられている内容のすごさ、それはわからないだろう。教えられる子にはそれを判断する力がそもそも無い。結局は居心地の良さ?サービス産業ですか。これもマニュアル化された大手の営利塾にはかなわない。いやいやそれではいけない。勉強させていただきます。

ただ、体験授業を授業の雰囲気や進め方を知るためのものだと思っていたわたしは、二回続けて同じことをしたいという人がいたのにすっかり驚いてしまった。

自分がしたいことはしたい。まあここまではいい。誰だって思い通りにできるなら、したいことはしたい。だが、そこで自分がしたいことを押し通すと、逆に、他の人に迷惑が及ぶことになる。わたしが驚いたのは、たったそれだけのことに思い至らない人がいる、ということだった。

他の人に自分の便宜を図ってもらうようなときには、相手の手を煩わせる割合を最小限に留めるよう、自分も協力する。このことは、だれでも成長過程において学んでいく種類のことなのではあるまいか。たとえば教科書を忘れて、隣のクラスの友だちに貸してくれるように頼むときに、「自分はちょっと外で遊んでくるから、自分の席に教科書を置いておいて」と頼む子はいない(いたらつぎから貸してもらえない)。

もしかしたら自分の子供のことだけを考えている人というのは、周りの人の子の気持ちがどうなのかということに何の痛痒も感じなくなる、という一種の病いに罹患しているのかもしれないが。

自分の利益だけを考えている人には、周りの人が見えない。

実際のところ、そういう人の割合がどれほどを占めるのか、わたしにはよくわからない。たまたま数人の同じ行動を続けて体験しただけなのかもしれない。だが、自分の行動が、非常にわかりやすく「身勝手」であることに気がつかない人が、あちこちで目に付くようになったことは、何となく、日々感じるところではある。

 

広く社会では、よくわからない犯罪がつぎつぎと起こっている。新聞の紙面を新たな大きな事件が埋め尽くす。もはやひとつひとつの事件に衝撃を受けることもなく、まるで疲労が蓄積していくように、よくわからない事件から受ける違和感だけが積み重なっていく。

そこから来るのは、自分たちが生きている社会は、よくわからない、自分にはどうしようもできない場所だ、という意識、まるで無力な子供のような意識だ。

無力な子供がそんなおそろしい社会で生きていこうと思えば、できるだけ巻き込まれないように、自分を傷つけないとわかっている少人数だけとつきあって、世間など締め出して、ささやかな世界を快適に整えていく、ということになってしまう。

だが、確かにいろんな事件が起こっているとしても、自分が現実に生きている世界というのは、実際のところ、ごくごく狭いものなのである。

自分が果たすべき責任だってあるし、自分にできることもある。自分が何かをすることで、人を助けることもできるし、自分の周囲を変えていくことも、人を動かすこともできるのだ。

あふれるほどの報道の中で、わたしたちは現実の距離感を失っているのではないか。

自分の関われる範囲で、自分にできることはまちがいなくある。 そうした責任を果たすことが、わけのわからない犯罪を減らしていくことにも、住みよい人間関係を作っていくことにも、どこかでつながっていくような気がするのだ。

もしかしたら、風が吹けば桶屋が儲かる、ぐらいの因果関係かもしれないのだけれど。

TOCの風 NO.2  「大人になること」

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風 NO.2  大人になること

                 (成人式は知らないが。正月の寒風を受けて)

TOCでは警報が出ても、休みは日曜・祝日だけだ。でも,その祝日は祝日で、いったい何の日かあまり考えることもなかった。

ただこの正月を過ぎた月曜日は、派手な色合いの振り袖に、ふかふかした毛皮のショールを巻いた若い女の子たちをたくさん目にしたので、ああ、成人式なんだな、と思った。

そして、そういえばTOCにいた子たちは、といくつもの顔が浮かんだ。

自分が成人式と無縁の過ごし方をしたので、未だに大勢の二十歳がわざわざノエビア・スタジアムのような場所に集まってくる、というのが不思議だ。それでも地元にいれば、結局は一種の同窓会、日ごろ会うこともない中学や高校のときの同級生と顔を合わせる楽しみがあるのだろう。

わたしのときは成人式というと、間違っているかもしれないが、二十歳になる年となった年の2回、選択で出席の機会をもてたと思う。 しかも一月十五日だった。

自分のところにも成人式の案内が届いていたのだろうが、そんな通知など見ることもないまま、元旦が過ぎると早々に、宅浪中のわたしは、勉強できる場所を求めて公会堂や図書館に通っていた。

次の成人式の時も、誕生日が七月なので、すでに成人して半年ほどが過ぎていた。大学には通っていたが、かといって、大人になった実感などまるでなかった。毎日何かしよう、と焦っていた。

とりあえずは勉強をしなくては、と思ってはみたものの、何から手をつけていいかわからず、さしあたって語学でも、と開いたフランス語の文法書は、なんだか ばからしく、明日から、明日から、と日延べして、まるで逃避するかのように小説ばかり読んでいたのがこの時期である。『ホテル・ニューハンプシャー』を持ってベッドに入り、ページの最後をめくるころには、スズメの声が聞こえてきた。そんな毎日だった。

あとはバイトに明け暮れて。 当時の生活というと、ほんとうに本を読むかバイトに行くかのどちらかだった。

高校時代には、近所で頼まれて家庭教師のようなことをやっていた。でも実家を離れたそのころは、野球場のバイトのほかに、単発のバイトをいくつも掛け持ちしてはいたが、実入りのいいバイトはなかなか見つからなかった。時給の高い塾・家庭教師の口は、大学の掲示板にもアルバイトニュースにもほとんど載っていなかった。

そこへ上級生から大手進学塾の講師を募集している話を聞いたのである。なんでも採用試験があり、なかなかの難関であるらしい。母から自分が小学生のころ、受験塾のようだった高羽小で使っていた『算数 応用自在』を送ってもらい、バイトの行き帰り、バスの中で解いた。

小学校の頃の、自分の大きな子供らしい字に、成人したわたしの字が、かぶさった。

みぞれまじりの道を、バスがのろのろと走っているときだった。おそらくわたしは膝に置いたカバンの上で、問題集の流水算だか方陣算だかを解いていたのだと思う。ふいに窓の外がぱっと明るくなって、思わず顔をあげた。窓の外に、あざやかな色の振り袖の一団と真新しいスーツ姿の青年たちが、笑いさざめきながら歩いていた。陰鬱な空をものともしない、明るい声と姿だった。

ああ、今日は成人式だったのか、と思った。そんな格好をしている人をうらやましいとも、自分も出たかった、とも思わなかった。人は、自分に関係のないものをうらやましがったりしないものだ。そのときのわたしにとっては、時速の異なる電車がすれちがう時間や、食塩水の濃度の方がよほど問題だったのだ。採用試験に受かり、いまより数倍の時給の職を得たいとだけ、考えていた。彼ら彼女らとわたしの唯一のつながりは、同じ年に生まれたというだけだった。 関係ないとすら感じなかった。

あれからずいぶんの年が過ぎて、いまになって振り返れば、当時のわたしとバスの外、ピシッと決めた男の子たち、きらびやかな格好で歩いていた女の子たちがどれほども違わなかったことを知っている。

中3で父が病死し、自分だけが、不安に負けまいと肩肘張って、必死で生きているつもりでいたが、彼らだってそれぞれに、不安や悩みを抱え、それぞれに懸命に生きていたのだろう。

自分を大切にする、ということが言われるようになって久しい。そういう言葉が頻繁に口にされる背景には、そう言わざるをえないような出来事があるとか、若い年代の人たちが、あまり自分を大切にしているようには見えないということがあるのかもしれない。

その人たちが、自分を大切にしているのか、いないのか、わたしにはよくわからない。けれども、自分で自分を支えなければいけない年代になったとき、だれもが自分が生きる意味を考えるはずだ。自分だけにしかない意味を考えると、どうにも曖昧で、そんなものはどこにもないような気がして、不安になってしまうかもしれない。だれも自分を認めてくれないことに、歯ぎしりする思いを持つこともあるかもしれない。

けれど、そう感じている自分と向き合い、自分を引き受け、進む方向を決めていくことが、自分を大切にするということではないのだろうか。

自分と向きあうというのは、ひとり 部屋にぶつかって自分の内側をのぞきこむことではない。いろいろな出来事に出くわし、人に会い、本を読み、とにかくぶつかりながら、それに反応する自分を知るということだ。

できない自分、失敗する自分、認めてもらえない自分を引き受けることだ。それ以外にどういうふうに自分を大切にする方法があるのか、わたしにはよくわからない。

不安な人に向かって、自信を持て、というのは、貧乏な人に、お金を持て、そうすれば貧乏ではなくなる、というアドバイスをするのと同じだ。お金を持つことができないから、その手段を現在は持っていないから、その人は貧乏なのだから。 同じように、自信を持つことができないから、その手段が見つからないから、その人は不安なのだ。

卒業後にも長い、不安な若い時代を過ごしたわたしは、そんなバカなことは言いたくない。

その代わり、経験から知っていることなら言える。

心配する必要はない。 不安はなくならない。

けれども、不安は変わっていく。 いま抱えている不安は、自分が成長することによって、技術や知識を身につけることによって、あるいは、環境が変わることによって、もはや不安でも問題でもなくなっていく。

つぎの段階では、 つぎの不安が待っている。

それでも、そのプロセスのなかで、学ぶことはかならずある。 学んだあとの「わたし」は、学ぶ前の「わたし」とは同じではない。

そうやってわたしは大人になってきた。

自分がそれこそどれだけ賢くなったかと思うと、忸怩たるものはあるのだが・・・。

社会全体に閉塞感がただよっているのは確かだ。

それでも、そのことと自分は関係あるのだろうか。関係あるのだとしたら、いったいどういう関係の仕方をしているのか。

なんとなく、誰かが言っていることや、時代の気分のようなものにまどわされず、自分を大切にしていってほしいと思う。

頼りないけど・・・・今もTOCに、わたしは いる。

TOCの風 (エッセイ)NO.1  才能

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風 NO.1   才能?

              (師走の風に向かって)

1.先生は必要?

一応、私は人にものを教える事を「生業」としている。

小中高校生の勉強や,その指導法や,論文の書き方などを。

授業がスムーズに進むように、できるだけの準備はしているけれど、予想もしない質問が来て、思わず「はあ?」とアゴをはずしかけたり、時間をかけて限界値に到るほど丁寧に教えたはずなのに、脳天を打ち砕かれるような答えを読まされたり、自分の無能さを日々思い知らされる事ばかりである。

ところが、そんな程度の私に「わたしって、プロの塾教師になれます?」とか、「うちの子は、模試でこれこれの成績だから、勉強の才能がありますよね?」と聞いてくる子や親が、授業や、講習会の後で何人か現れる。

答えは決まって「そんなことは分かりません。」

本当にそれ以外は答えようがないのだが、たいがい聞いてきた側は、おもしろくなさそうな顔をする。

何と言ってもらいたいんだろう。わたしが太鼓判を押したら何かいいことがあるのだろうか。

実際、安易に請け合う人たちもいるのだが・・・。

けれども、勉強に限らず,ほんとうに才能がある、とか無いとかそんなことがどうして誰かに言えよう。「才能」というものは、その人が生まれたときにもらった、リボンがかかった箱に入っているプレゼントではないのだ。

高校時代の美術の先生だった大橋先生(日本画家・元近代美術館館長)は、画家になるには、ひたすらに描き、描き、描き続けるなかで、線をすこしずつ洗練させ、使える色をふやし、そのなかから自分の線と色を見つけていくしかない。その結果、自分がどこにたどりつけるか、あるいはどこにもたどりつけないかは、誰にもわからないと、おしゃっていた。

もし「才能」という言葉をどうしても使いたいのなら、これをやり続ける能力としか言いようがない。すくなくとも「才能」は、プロになれるお墨付きなどではないのだ。

好きなことを見つけなさい、ということを誰でも聞いたことがあるだろう。それはなぜかというと、好きなことでないと続けられないからだ。自分の思いどおりにできるようになるまで、たいがいのことは、アホらしいほど時間がかかる。

同じことを一人っきりで繰り返し繰り返し、延々とやっていかなければならない。そんなことは死ぬほど好きでなくては、絶対にできない。そして、自分の思い通りにできるようになったところが、ほんとうのスタートラインなのである。つまり、「好きなこと」とは、飽きようが、イヤになろうが、けなされようが、とがめられようが、毎日毎日繰り返してできることであり、それは見つかるというより、もちろん巡り合ったのは偶然であっても、自分がそれと強い関係を結ぶことができるもの、といったほうがいい。

絵を描くことばかりではない。楽器を演奏することにせよ(Weaverの奥野君のように)、漫画の原作を書くことにせよ、ゲームのプログラムを作るにせよ、おそらくコックにせよ大工にせよ陶芸家にせよ写真家にせよ、それがなんであってもある程度、形になるまでは時間がかかる。そして、そこに行くまでには、気持ちが悪くなるくらい、失敗を続けていかなくてはならないのだ。

それが学校の勉強の場合、そこまでする人が少ないだけなのである。そして、そこまでしなくても、大抵は、学校の勉強の目的は達せられる。

わたしたちは言葉でも自然に身につけているわけではない。生まれ落ちるとすぐ、親の話すのをものすごい集中力で聞きながら、何度も繰り返し繰り返しまねをし、一年か二年して、やっとしゃべれるようになってきたのを忘れてはいけない。

つまり、どんな技術でも身につけようと思ったら、まねをし、参考にする対象、つまり先生が絶対に必要なのだ。

  

2.       教え-教わるということ

バレリーナというのは、舞台を降りても、非常に立ち姿が美しいのをご存じだろうか。単に背筋が伸びている、というだけでなく、重力を感じさせない立ち方をする。群衆の中にいると、その姿は目立つ。他の人間がGに打ちひしがれたような格好で壁にもたれたり、柱に寄りかかっている中にあって、ひとり重力とは無縁に立っている。それが不思議でバレーをしていた妻や叔母に聞いてみたことがある。すると、初心者の指導もしていた彼女たちの先生は、最初に、頭のてっぺんからひもが出ていて、自分が常にそのひもに吊り下げられているところをイメージするように教えていたのだそうだ。その先生自身もそう教わったのだという。確かにそういうイメージを持って立つと、背筋が伸びるだけでなく、力が抜け、軽く立つことができる。

あるいは、こんなこともあった。息子たちが通っていたスイミングのインストラクターが、身体が沈んで上手く泳げない、という人に、「あごを引いて泳いでみて」とアドヴァイスするのを聞いた事がある。その一点に気をつけただけで、泳ぎがまったく変わったのには、近くで見ていた私もおどろいた。

もうひとつ、これは私自身の経験なのだが、日本人が苦手とされるLとRの発音の区別、私はこれには比較的苦労することがなかった。というのも、中学生当時、通っていたパルモア学院のアイルランド人の先生から、Rを発音するときは、上唇の両端を緊張させる、という指導を受けたからなのだ。多くのテキストには、日本語にはないRの音の舌の位置については書いてあるけれど、上唇を緊張させる、ということは書いていない。だが、その一点、気をつけるだけで、発音は全く変わってくる。自分が正しく発音できれば、聞くときもそれほど難しくはない。

あらゆることは、まず、主体の身体の構えにかかわる。中学高校と続けてきた剣道で、厳しくたたきこまれてきた事だが、このことは、剣道や踊りや水泳や語学だけではない。絵でも、一本の線を引こうと思えば、鉛筆やコンテや筆の持ち方、持っていない手の使い方、座り方、そうしたものが正しくできていなければ、思い通りの線は決して引けない。

そうして、絵を描くことが、実は見ることそのものであり、脳の一部を手に移動させている行為であるように、見ることにしても、考えることにしても、あるいは文章を書く、本を読むといった、わたしたちが普段「身体行動」とは意識していないような活動を行うときも身体は密接に関連している。その行動にふさわしい、身体の構えというふうなものがあるのだと思う。

先生、というのは、この身体の構えのお手本なのである。わたしたちは先生が立つのをまねて立ち、先生の線をなぞる。先生の言葉をまね、先生の身体の動かし方をまねる。先生のものの見方をまねて、考え方をまねる。

(当然、親の・・・・)

そこで問題になってくるのは、わたしたちは自分の身体がどうなっているかを自分では見ることはできない、ということである。自分がどれだけまねているつもりでも、自分の立ち姿のイメージは、外から与えられるまで思い描くことはできないし、身体が沈んでいくという形でしか意識することはできない。自分の身体がどうなっているかを俯瞰する「外部の眼」がどうしても必要なのだ。

加えて、そうした点を的確に表現し、アドヴァイスを送る「身体的な」言語がどうしても必要になってくる。そうした言語の遣い手は、決して多くはない。「一緒に泳いでいるともだち」ではダメなのはもちろん、単に経験者というだけでもダメで、そういう言語運用能力に長けた人、あるいはそういう指導を受けている人に習うことが必要になってくる。

ところがこうした明らかに核心をついたアドヴァイスを受けるチャンスというのは、実際にはそれほど多くない。私にしても、そのアイルランド人の先生の指導を三年近く受けていたのだけれど、はっきりとしたアドヴァイス、これを聞いて本当にためになったという情報は、その一点だけだ。振り返ってみても多くのいい先生に恵まれてきたのだけれど、これを聞いてためになったという形で自分の中に残っているものは、ほとんどない。

つまり、核心をつくアドヴァイスを求めて、先生につこうと思っても、それは必ずしも効率がよいことではない。「情報」ということに限定するなら、自分の役に立つ情報は必ずしも得られるとはかぎらないのだ。

そんな不確かなことならば、やはり先生など必要ないのか。そんなことはない。やはり技術の向上を目指そうと思うのなら、必ず先生につかなければならない、と、わたしは思う。

十代の終わりに、小学生や中学生に勉強を教えることになってから、さまざまな場で教えるという経験を重ねてきて、つくづく思うのは、教えられるほうは、自分の好きなことしか聞いていない、ということだ。ここが大切だ、と口を酸っぱくして言っても、プリントを作っても、宿題を出しても、教わる側はちっとも聞いてはいない。好きなように「理解」するし、勝手に「励まされた」と感動するし、「傷つけられた」と怒り出す。

つまり聞いている側は、聞きたい情報をいくつかピックアップし、それをつなげて勝手に「物語」を作り上げ、自分のものにするのである。

ここで言えるのは、教える-教えられる、という関係は、パッキングした知識を宅配便のように教える側から教えられる側へと発送することではない、ということだ。

これをコミュニケーションという観点から見るならば、教師の発話を受け取った生徒の側からコミュニケーションは始まっていく。教える-教えられるという関係がコミュニケーションとして成立するか否かは、教えられる側にかかっているのである。

つまり、教えられる側が教わろうとしてその場に入っていくとき、教える-教えられるという関係が初めて成立するのである。そうしてそこで何を学ぶか、というのも実は教えられる側が選び取っていくことなのだ。

しばしば聞く話に、学校に行っている頃は勉強なんか楽しくなかったけれど、大人になって勉強してみると、これほど楽しいことはない、というものがある。大人になってからついた先生が良かったから?そうではない。

ひとえに教わる側のあり方が変わったのだ。教わる側が、教える-教えられるという場に自分から主体的に入って行ったのか、それともいやいや連れてこられて、ダルくてやっとれんわーと思っているかの違いなのである。

当然、ここにお金の問題が介在してくる。教える-教えられるという場を設定するときに、金銭を介在させるというのは非常に分かりやすいことなのだ。

大人になって、自分が身銭を切って行く英会話教室やカルチャースクールで「不登校」になる生徒はいない。講師が休めば、振り替えを求める。ところが、義務教育の頃は、自分が懐を痛めていないものだから、不承不承、行かされているように思い、サボり、教師が自習にすれば大喜びする。

そうした意味で、自分は教えられる場に入って行く、という心構えのためにも、お金を払うというのは必要なことだと思う。経験の少ない未熟な子には、その価値や技術はまだ見えないのだろうけど、それは親が教えなければならない。

プロになる、つまり、その道で食べていくことができる程の収入を得ようと思えば、知識と技術が前提となる。知識と技術を習得するためには、教える-教えられるの関係に入って行くことが必要である。そうして、その場に入って行くことは、お金がかかることも、了解しておく必要がある。

けれども、そこで得た知識も技術も、それだけでは何の役にも立たない。こんどは、それを自分のものにしていく過程が必要になってくる。文字通り「身につける」というプロセスである。それが繰り返しのトレーニングであり、いかにそれを効率よく、倦むことなく、続けていけるかどうかが問題なのである。

その結果、プロになれるかどうかは、大橋先生の言葉ではないけれど、「誰にもわからない」。ただ、個人差はあるにせよ、できるようになったことを前提にして、必ず自分の思い通りに身体が動かせる段階に到達できるはずだ。つまり、一種の「自由」を手に入れることができるのだ。

自由ということを書いたついでに言っておくと、技術を身につけない段階で「好き勝手」にやることと、自由とは全く違う。技術が無く「好き勝手」にやっているときは、全く「不自由な限界」の中にいるのだけれど、その状態に気付いていないだけなのである。ヘッタクソな絵を「自分の個性」だと思っているのは勝手だけれど、それは「自分が全く不自由な状態」にいることに単に気付いていないだけなのだ。自分の限界を指摘する「外部の眼」など必要ないと思うのなら、それもまたいいだろう。趣味として、楽しくやって行けばよい。けれども、そこから出ようと思うなら、「外部の眼」の評価に自分を晒さなければならない。自分の不自由さに気がつかなければならない。

プロになるというのは、何にせよ大変なことだ。けれども、できないことを見極め、できることの領域を少しずつ広げていくプロセスのなかで、わたしたちは必ず自由になって行くはずだ。それを思うと、その大変な道の一つを選択する価値は十分にあるはずだ。世間の識者、先達たちは、さまざまな言葉でわたしたちに教えようとしてくれていたと思う。

さて、ここで教える側は、何を教えたらよいのだろうか。そのお金に見合う何物かを提供するためには、何をしたらいいのだろうか。私自身、未だ模索している段階なのだけれど、その上で、今こころざしていることをいくつかあげてみたい。

①    場の雰囲気をコントロールして、教えられる側の気を上げる

もちろん、これはコミュニケーションの起点が教わる側であることを考えれば、教える側がどこまでコントロールできるかははなはだ心許ないものでもある。けれども、やはり教える側が一方の当事者であり、送り手であることは間違いない。少しでも学びの場に近づけることができるように、できるだけの努力はすべきであろう。私のオヤジギャグはあまり評判は良くないのであるが、けなげな努力の一端ではある。

②    教える側が、自分なりの基準を持つ

どういうものを良いと思うのか、なぜそれが良いと言えるのか、そうした基準を教える側が持っていることは必要不可欠だと思う。その基準が無ければ、教えるのも場当たり的にならざるを得ないし、まじめな受け手は混乱するだろう。その基準を受け手が批判してくる場合は、それに応酬していく必要がある。つまり、それを毅然と行える程、その基準は教える側にとって、確固たるものでなければならないと思う。

③    「答え」ではなく、どういうふうに考えを進めたら良いのかを教える

受け手が知るべきは、いくつもある「答え」のひとつではなく、そこへ行くまでのプロセスであり、さらに言えば、そこから次の質問を作りだしていく道筋を示すことができたらと思う。そのプロセスは知識の集積ではない。自分の経験を理論化することによって編まれた「身体的言語」であると思う。

以上のことを総合すると、結局、教える側も学び続けていかなければいけないということなのだ。

何にしても、教えられる側が、自分の思う通りにできるようになるまで、時間がかかる。そこに到るまでには、同じことを、たった一人で繰り返しやっていかなければならない。その繰り返しに、方向付けを与え、飽きないように励まし、たった一人ではないのだ、と勇気づけることが、おそらく、教える側のやらなければならないことだと思う。

そうして、教える側も、思い通りに教えられるようになるまで、時間がかかるということを覚悟しなければならないだろう。教え始めて、三十有余年経てもいまだに、未熟を感じている。教える側は、同時に学ぶ側でもある。そうして、学ぼうと思うときは、教える側であるか否かに関わらず、やはり導き手を探さなければならない。

教えることは、難しい。けれど、教えることによって勉強させてもらっている。これは、つくづく思うことだ。こうやって、また頑張っていれば、何年かしたら、もう少しましな先生になれるんじゃないかと思い続けている・・・・。

でも・・・

最初の「生業」を、「せいぎょう」と読めるけど、ここで「なりわい」と読んでくれない語彙力不足の子たちに、分かってもらえる力をつけていくには、まだまだ努力が必要なんだろうなあ。

先生の文章、もう一度はじめから、読んでみて!