TOCの風

立ち止まることは 悪いことじゃない。TOCの窓 NO.132

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ずっと前ネットでいろいろ探しているとき,たまたまそうだなあと思う言葉に出会ったので、メモしました。時々見返すことがあります。  その後、出典を探したのですが、見つかりません。知っている人がいれば教えてください。  もっと書かれていたことがあったかのかなとも思うのですが、これだけでも、もしかしたらあなたの心に引っかかるところがあるかもしれません。  作者は分からず了解を得ることもできずに、申し訳ありませんがここにそのまま書かせていただきます。  猛暑の夏、 ちょっと立ち止まることは 悪いことじゃない  と思います。

笑えるのは  楽しんでる証拠。

怒るのは  真剣だった証拠。

喧嘩するのは  一緒だった証拠。

つまずくのは  進んでた証拠。

裏切られるのは  信じてた証拠。

失恋するのは  愛してた証拠。

「疲れた」は  頑張った証拠。

失敗したは  挑戦した証拠。

「もうやめようかな」は  まだ希望を捨てずにいた証拠。

「素直になれない」は  それだけ愛してる証拠。

もういいは  ぜんぜんよくない証拠。

大丈夫は  ぜんぜん大丈夫じゃない証拠。

いつもへらへらしてる人は  過去に何かあった人。

よく笑う人は  よく泣いた人。

よく大丈夫と言う人は  よく無理をする人。

よく強がる人は  よく我慢する人。

幸せな人は  辛さを知ってるから

優しくなれる。  強くなれる。

努力する人は  希望を語り、  怠ける人は  不満を語る。

泣きたかったら  泣けばいい。

辛かったら  頼ればいい。

我慢できなかったら  我慢しなくていい。

笑うのが疲れたら  無理しなくていい。

「明日笑えるかな」って思うより

  「明日少し笑ってみよう」って思うほうが  辛くない。

立ち止まることは  悪いことじゃない。

辛いとき。 苦しいとき。

少し休憩して 

 またもう一度歩き出せばいい。

 

じゃあ、また。
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理科まとめ  1年物理 9  状態変化 

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刃物研ぎ  工作くん  NO.9

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雨で2週連続デッキの床はりが流れたため、久しぶりに刃物研ぎです。

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キッチンの包丁も研ぐので奥さんも喜んでくれます。

自作の研ぎ台で角度を保ってひたすら研ぐと、汗もうっすら浮かんで無心になり、気に入ってます。

角度の取り方、それを一定に保ち研ぎを繰り返すためには姿勢から整えねばならず、なかなか難しいですよ。

秋の長雨の日は、家でこんなことをやってます。

じゃあ、また!

理科まとめ 1年物理8 密度

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中間テストを目前にプレゼント

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理科まとめ  1年物理 7  有機物と金属

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年長さん授業料無料で~す

じゃあ、また。

TOCの風 NO.7 Believe in yourself

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外科医のブログにあった話です。複数の大学病院で診断されたバージャー病による難治性潰瘍の女性の患者さんが話してくれた内容だそうです。

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私が(アメリカ人の)夫に

「どの病院に行っても足を切断しなさいといわれる。でも、私は切断なんて嫌。私、どうしたらいいの?」

と愚痴をこぼしたら、彼はこう言ったんです。

「○○子。君はなぜ自分を信じないんだ。君が正しいと思う道を進むべきだ。足を切断されたくなかったら、『足を切断しなくていい』という医者を探して、その先生を信じてついていけばいいだけじゃないか。難しいことじゃないさ。自分を信じて自分らしく生きていけば、道は必ず見つかるさ。

この夫の言葉を聞いて、医者の言葉に振り回されていた自分が馬鹿みたいに思えました。そういうわけで、今、先生の外来に来ているんですよ。

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アメリカ映画には嫌というほど登場する「自分を信じて」という言葉ですが、こういう意味だったのかと目からウロコがボロボロ落ちました。

このアメリカ人の考え方は、筋が通っていてちょっと格好いいです。

じゃあ、また。

 

TOCの風 NO.6  入院して思ったこと

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このあいだ10数年ぶりに入院した。こちらの体調があまりよくなかったのは2日目ぐらいまでで、あとは朝早くに検査のために病院のなかを右往左往するほかは、ベッドに腰掛けて窓の外をボォ-ッと眺めていた。久しぶりに、何もせずに。

その部屋は比較的大きな四人部屋だったのだけれど、どの人も入院したばかりの、言ってみれば「処置待ち」の部屋だったようだ。わたしのいたベッドは、入り口からすぐの突き当たり窓際にあり、窓の先には近代的なビル、街路樹が並ぶ車の少ない通りと、遠くにはキリンのような形のコンテナを吊り下げる巨大な機械が小さくいくつも見え、真っ青な海と空が広がっていた。

そして、まったく同じベッドが、カーテンの間仕切りの向こうにひとつ、反対の奥にふたつ並んでいる。日中でも閉め切ったままのカーテンの向こうにどんな人がいるのか、うかがうことはできなかったけれど、まず、看護婦さんの話しかける調子から、両隣りは高齢者であることが知れた。

おじいちゃん、とは、さすがに呼びかけないけれど、「○○さん!」という呼びかけからして、すでにわたしなどに対するものとはちがう。

「○○さん、おはよう! 昨夜、どうやった? ちゃんと寝られた?」
必要以上の大声は、耳の遠い相手にはありがたいのかもしれない。けれども、丁寧語を省いたなれなれしい呼びかけ、まるで相手が小さい子供でもあるようなしゃべり方は、優しい、とか、親しみを込めた、というよりは、逆に、上から押さえつけるような、強圧的な物言いのようにも思えた。

「そうなん? それはあかんね。先生に聞いてみようね」
看護婦さんが変わっても、そのしゃべり方はみな同じだ。いったいどうしてこのような話しかけ方が定着したのだろう。

看護婦さんと交わす声から、同室の人のおおよその様子は察することができた。
入り口脇の人は、ほとんど寝たきりで、何か聞かれても弱々しい声で答えるだけだったけれど、奥の人は、ずいぶんはっきりとした口調だった。朝の検温で、回ってくる看護婦さんに体温を告げる声も、問診のときの返事もしっかりしている。声を聞くだけでは、退院も早そうな感じだった。それでも、両者に対する語りかけの姿勢は同じであった。まるで幼稚園の先生だ。

見舞いに来てくれた外科医である息子たちに聞いてみた。「お前たちも、そんな話しかけ方するんか?」「いや、意識してないなあ。」現場で見ないと分からない。

看護婦さんたちが、高齢者に対して、あたかも幼い子供に向かうような接し方をするのは、年を取ることを子供に、さらには赤ん坊に還ることというメタファーで理解しようとしているからなのではあるまいか。

赤ん坊に還り、さらには、赤ん坊が出てきたところに戻っていくのだ、と、どこかでそう思いこもうとしているのではあるまいか。

切り立った崖に向かって、まっすぐに歩いていく、というメタファーで人の生を捉えるのは、ある意味、恐ろしいことだ。

それよりは、円環するもの、「行く」のではなく、「還る」ものだととらえていくほうが、よほど〈老い〉にしても〈死〉にしても、受け入れやすい。

輪廻転生。
日常的に〈老い〉や〈死〉に接しながら生きる人の、それは一種の知恵なのではあるまいか。

同時にこれはまた、日本人が昔から受け継いできた死生観でもある。
小さな子供に、おじいちゃんの生まれ変わり、という。
虫のなかに生まれ変わった人を見る。
こうした死生観は、おじいちゃんと見られる人が若く当たり前のように暮らしていたその当時と、それほども隔たってはいない。違和感をもつほどにも変わっていない。

過去は、歴史は、過ぎ去ったように見えても、いろんな形でいまに現れている。 そんなふうに思ったのだった。

じゃあ、また。